歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

八王の乱⑭ 司馬倫挙兵のリーダー・司馬冏に対する司馬穎の嫉妬

 301年4月時点:

【司馬冏政権】----------------------------------------

①司馬朗家(司馬威)

②司馬馗家(司馬越)

③司馬孚家(司馬顒)

④司馬肜

⑤司馬倫

⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇)

⑦司馬駿家(司馬歆)

⑧司馬攸家(司馬冏)

⑨司馬允

⑩司馬乂

⑪司馬穎

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司馬冏政権において、八王の乱のプレイヤーは上記8プレイヤーである。

 

司馬冏と司馬穎は並び立つのか: 

司馬冏が政権を取った際、

司馬穎の立ち位置が焦点となった。

 

 

司馬冏が司馬穎を招くか、

司馬穎が参加を希望するか、

いずれにしても連立政権となる。

 

しかし、司馬穎というよりも司馬穎陣営はその上を行った。

政権参加を辞退することにより、政権内で争わないという思い切った

手段に出た。

司馬冏の失政を狙う、

より野心的な手段だった。

それにより、より一層確実なポジションを狙った。

 

盧志の建言による。

 

このため、

司馬冏は政権を運営するも、

鄴にいる司馬穎の存在を常に意識しなくてはならなかった。

 

司馬冏政権を支えるのは、

司徒の王戎と司空の司馬越である。

 

王戎は瑯琊王氏の出身であり、

竹林七賢の最後の一人である。

234年生まれ、301年時点では67歳である。

死没年は305年である。

清談の士である。

 

賈后政権を張華とともに支えた裴頠に

娘を嫁がせて居たので、連座して下野していた。

賈后に対する司馬倫のクーデターの際、司馬倫は裴頠を処刑している。

 

 

また、

ここでようやく司馬越が登場する。

司馬冏は喪に服していた司馬馗家の司馬越らを政権に取り込んだ。

 

司馬攸家(司馬冏)・司馬馗家(司馬越) 対 司馬穎・司馬孚家(司馬顒)

 

という構図になる。司馬攸と武帝司馬炎の代理戦争とも見れる。

 

握っている都市で言うと、

 

洛陽 対 鄴・長安

 

である。

 

司馬肜・司馬伷家・司馬駿家・司馬乂の帰趨:

 

残りの4プレイヤーである、

司馬肜・司馬伷家・司馬駿家・司馬乂

がどちらに付くのかが

勝負の分かれ目になる。

 

 

【1】司馬肜は、太宰であったが、302年5月に死去した。

プレイヤーとして退場した。

 

【2】司馬伷家は分裂している。

司馬澹・司馬繇の兄弟喧嘩である。

司馬冏が政権を摂ると、

司馬澹・司馬繇の兄弟喧嘩に母の諸葛太妃(諸葛誕の娘)が絡んでいく。

当時司馬繇が遼東に流刑にあっていたが、

諸葛太妃が司馬澹を不孝として流刑を進言。

結果として司馬繇は洛陽に戻り、代わりに司馬澹が遼東に流される。

しかしながらまもなくこの諸葛太妃が死去、

司馬伷家は喪に服すこととなる。

一旦司馬伷家のプレイヤーは八王の乱から離れる。

 

【3】司馬駿家の司馬歆は、

司馬冏に進言するも、取り上げられず、

新野王・都督荊州諸軍事として新野に出鎮。

司馬顒が司馬冏を弾劾する上奏書を恵帝に奉っている時には、

司馬冏を打倒するために呼び寄せるメンバーの一人となっている。

出鎮したのち、司馬冏を見限って、司馬穎陣営に与した。

 

【4】司馬乂は、司馬穎に政権を摂るようにと進言していて、

司馬穎が望んだのかはわからないが、

司馬穎に与する。

司馬乂はここまであまり前面に出てこなかったがそれは、

同母兄が司馬瑋であったためである。

賈后に利用されて最後は騙されて殺害されるあの司馬瑋である。

司馬乂は司馬瑋とともに行動をしていた。

賈后政権時には苦渋を舐めていたが、

司馬倫後復権していた。

しかし、司馬瑋を立てる弟としての立場が多かったからなのか、

自身が立たず司馬穎を立てようとする。

 

と言うことで、

今回の対立には、

司馬歆と司馬乂が、司馬穎陣営に参加となる。

司馬穎が圧倒的有利となる。

 

加えて、

司馬越の従兄弟司馬虓(しばこう)が司馬穎陣営に参加。

司馬虓は司馬馗家の一員であるが、本家で長老は司馬越である。

司馬冏政権において、司馬越は司空となったが、消極的参加と見てよい。

喪から明けて、権力闘争の蚊帳の外から入ったばかりの司馬越は、

司馬冏に要請に基づいて入閣したに過ぎない。消極的参加の司馬馗家が、

司馬穎陣営に参加して二股をかけても、それは批判には値しないであろう。

司馬越は王戎とともに、司馬冏に政権を委譲するようにと献言するも、

司馬冏が応じない時点で、司馬越は司馬冏を見限った。

 

結果として、

司馬顒の弾劾状が上奏され、

王戎と司馬越は司馬冏に対して政権を移譲することを進めるも、

司馬冏は受け入れない。

最終的には司馬乂が宮中に軍勢を引き入れ、

司馬冏を斬り殺した。

302年12月のことである。

こうだああだの司馬冏の腐敗が史書にはあるが、

あまりあてにならないと私は考えている。