武帝司馬炎の子は下記の通りである。
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武帝司馬炎の男子は、26人いる。
うち、夭折したのが17人いる。成人したのが、9人。
三分の一しか成人できない、三分の二は夭折するという高い若死に率。
夭折率が高い時代背景なのかもしれないが、
三分の二が夭折というのはさすがに異常ではないだろうか。
成人できた武帝司馬炎の子:
成人できたのは、
恵帝司馬衷
司馬柬
司馬瑋
司馬允
司馬か
司馬乂
司馬穎
司馬晏
司馬熾
の9人である。
死没時年齢で言うと、最も長生きしたのは恵帝である。
47歳。
とかく悪く言われがちな恵帝だが、兄弟の中では長寿ということで、それも才能と言えようか。
ほかは司馬晏が30歳で、
夭折せずに成人したものでも、上記他7名は20代で早々に死去している。
夭折した武帝司馬炎の子:
夭折したのは、
毗陵悼王司馬軌(正則)2歳で夭折(母:楊元后) 夭折
城陽懐王司馬景(景度)(? - 270年)(母:審美人) 夭折
城陽殤王司馬憲(明度)(270年 - 271年)(母:徐才人) 夭折
東海沖王司馬祗(敬度)(271年 - 273年)(母:匱才人) 夭折
始平哀王司馬裕(濬度)(271年 - 277年)(母:趙才人) 夭折
代哀王司馬演(宏度)(? - ?)(母:趙美人) 夭折
新都懐王司馬該(玄度)(272年 - 283年)(母:厳保林) 夭折
汝陰哀王司馬謨(令度)(276年 - 278年)(母:諸姫) 夭折
渤海殤王司馬恢(思度)(283年 - 284年)(母:楊悼后) 夭折
上記9名+8名である。
気にかかるのは、
大半が、270年代から280年代前半までに夭折していることだ。
穿った見方をすれば、この時期は、恵帝が本当に武帝司馬炎の後継者で良いのかという
時代と重なっている。
楊氏一門、もしくは賈氏一門がのちの恵帝司馬衷に後を継がせるために、
ほかの皇子を宮中にて暗殺した可能性も否めないのではないだろうか。
司馬軌と司馬恢は両楊后の子で、
彼らは本当に夭折したと思われる。エピソードも生々しい。
だからこそそれ以外の詳細不明の皇子たちは。
宮中での暗闘が行われたと私は考えている。
宮中での暗闘は彼ら成人した武帝司馬炎の子とその身内で行われる。
恵帝司馬衷(正度)(259年 - 306年)(母:楊元后) 47歳 暗愚
秦献王司馬柬(弘度)(262年 - 291年)(母:楊元后) 29歳 頼りになる
楚隠王司馬瑋(彦度)(271年 - 291年)(母:審美人) 20歳 粗暴
淮南忠壮王司馬允(欽度)(272年 - 300年)(母:李夫人)28歳 沈着剛毅
清河康王司馬遐(深度)(273年 - 300年)(母:陳美人) 27歳 内向的
長沙厲王司馬乂(士度)(277年 - 304年)(母:審美人) 27歳 長身 果断虚心坦懐
成都王司馬穎(章度)(279年 - 306年)(母:程才人) 27歳 文盲
呉孝王司馬晏(平度)(281年 - 311年)(母:李夫人) 30歳 眼病
懐帝・予章王司馬熾(豊度)(284年 - 313年)(母:王才人)29歳
さて、成人した上記9名である。
武帝司馬炎の晩年289年に、王に封じられたのは、
司馬柬、司馬瑋、司馬允である。
存命中の武帝司馬炎の息子のうち、恵帝の次の兄弟を三名封じて、恵帝を守り建てるようにとしたわけである。
一番下の司馬允が289年の時点で17歳であり、ぎりぎり成人としてもよい年齢だったためであろう。
司馬遐は意志が薄弱で早い段階で司馬炎の同母弟の家に養子に出されていた。
その下の司馬乂は12歳とさすがに成人には早い。
一方で、
9人のうちまともなのは、3名のみである。司馬柬、司馬允、司馬乂。
武帝司馬炎から頼りになると評され寵愛された司馬柬、
沈着剛毅で司馬倫の専横に果敢にも挙兵した司馬允、
長身で容姿端麗、果断で虚心坦懐の君子司馬乂、
である。
司馬柬は惜しくも早死、
司馬允は司馬倫の専横に対して挙兵するも敗死、
司馬乂は司馬穎と協力して司馬冏を打倒するも司馬穎に裏切られ殺害される。
司馬允、司馬乂は恵帝の為に挙兵しており、武帝司馬炎の期待通りであった。
これだけ子がいながら、3人しかまともな息子がいないというのも、
驚嘆すべきことでもある。
※275年に洛陽において、疫病が猛威を振るい、
(出典:中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)川本芳昭著p53)
洛陽の人口の半分が亡くなったということがあった。
司馬炎自身も重い病に罹ったが、
司馬炎のこどもたちには、その没年から考えると影響はなかったようである。