歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬乂・司馬穎の兄弟喧嘩〜303年〜 正論を述べる司馬乂、人間らしい司馬穎

司馬冏が滅びると、
司馬乂と司馬穎の兄弟喧嘩である。
 

 

 

 

兄弟喧嘩の背景


これも西晋と言う時代の縮図である。
 
出自が良く、漢籍を収め儒教的経典の教養を身につけた
司馬乂。
 
見事腐敗していたと言われる司馬冏を討ち滅ぼし、
司馬乂は輿論の賞賛を浴びる。
 
武帝司馬炎の子で、
恵帝の弟としては存命最年長の司馬乂が、
乱を収めたことは、賈后が滅びた300年4月から、
司馬倫の簒奪を挟んで、司馬冏が302年12月に滅びる2年半の
苦難の時が終わったことを感じさせたはずだ。
 
当然司馬乂もそう考えた。
兄帝の恵帝を、我ら兄弟で支えよう、
それこそが周以来の理想政治である。
 
周公旦が兄武王が早死にした後、
この成王を輔弼して天下を治めた事績はよく知られてる。
 
天子、皇帝は当然絶対無比の存在で、
天子、皇帝の兄弟はよく輔弼すべしである。
 
王朝の祖がどのように天下を取ろうが、
王朝が始まれば、この理屈はみな同じであった。
 
だから儒教的教養を着実に修めれば修める程、
保守的になる。
儒教とはこうした点で、既存階層を守るための一面がある。
 
孔子が考えた儒教と言うよりは、
その後の王朝に利用される中で、
皇帝を頂点とした統治機構、既存階層を維持するために
改変されたというのが正しい。
 
司馬乂は、儒教の視点で当然、迷いなく恵帝を輔弼すべしと
考えていた。
 
司馬穎が司馬乂よりも強い軍権を持っていようが何であろうが、
乱が収まったのだから、我ら皇帝の弟は、
それぞれ恵帝を輔弼すべしである。
 
バカ正直、人が良いと言えば、それまでだが、
儒教を始め既存の価値観に毒されると、
妙に正論になる人間はどこにでもいるだろう。
それが司馬乂である。
 
鄴に駐屯したまま洛陽にて来ない弟司馬穎に対して、
司馬乂は度々手紙を出している。
一言で言えば、
「政権に参加してともに王朝を盛り立てよう!」である。
 
これさえも、司馬穎の癇に障ったに違いない。
 
そもそも、文盲で武断派の司馬穎は、
正論を言って、君子ぶる司馬乂が大嫌いなのだ。
 
父武帝に愛され、
名士から賞賛を浴び、
出自の良い司馬乂。
 
一方、
父武帝から忘れ去られ、
文盲ゆえに侮られ、
出自の低さから見下される、
司馬穎。
そして、そもそも司馬乂の二つ下の弟なのである。

 

兄弟喧嘩が政局に与える影響

 
司馬穎は個人的に司馬乂が大嫌いである。
共に政権に運営に参加したくもない。
 
仮に政権運営に参加したとしても、
司馬穎が司馬乂よりも評価されることはない。
 
なぜなら儒教的教養がなく、
漢文が書けないからだ。
 
それでは、西晋という貴族名族社会では評価されない。
 
司馬穎が参加したくないと考えるのは当然であった。
 
司馬穎は司馬乂の手紙に対して、
周囲の「悪臣」を打ち倒してから政権参加するとして
のらりくらりかわす。
 
西の長安に出鎮する、司馬孚家の司馬顒と連絡を密に取り、
洛陽の司馬乂を伺う。
それが303年前半の様相である。
 
正論ではあるが、軍権がなく孤立無援の司馬乂。
単なる権力志向であるが、強い軍権があり、情勢的に有利な司馬穎。
 
ここで、西晋末期の節操のない、日和見主義的な動きが出てくる。
280年に三国統一がなり、その後復興経済によりバブルとなった。
 
経済的繁栄が到来し、成金が生まれた。
 
そうした時代というのは利己主義が蔓延する。
 
その余韻を引っ張った、303年当時は、
司馬乂の古臭い正論に命をかける時代ではない。
 
一触即発の司馬乂と司馬穎を見て、
賈謐二十四友の牽秀などが続々洛陽を抜け出して、
鄴にやって来る。
陸機・陸雲兄弟は既に司馬冏政権の時点で司馬穎に身を寄せていた。
 
司馬穎は、分け隔てがなく、基本的に純粋なので、
来るもの拒まずで受け入れる。
 

兄弟喧嘩が軍事衝突を引き起こす。


さて、司馬穎、司馬顒陣営は、
洛陽の司馬乂をいよいよ攻撃することになった。
鄴の司馬穎は20万以上の軍勢、司馬顒は7万の軍勢を派兵した。
303年8月のことである。
洛陽には恵帝もいることを忘れてはいけない。
 
すでに皇帝は天の北極星のような絶対的な存在ではなくなっていた。
皇帝を輔弼するという儒教的建前論よりも、
利己主義が時代の風潮として上回った、それがこのタイミングである。
 
元より、自身に大義名分がない司馬穎は、
高い名声を持つ陸機に目を付け、
洛陽攻撃総司令官とした。
 
軍事力も高いが、
高名な陸機もこの軍旅に参加しているぞという
司馬穎のアピールである。
 
正論ばかり述べる兄司馬乂に対しての当て付けでもある。
 
しかしこれがまずかった。
盧志を始め、途中から司馬穎陣営に参加してきた陸機が
突然総司令官では、司馬乂を滅ぼした後、
全ての功績を持っていかれてしまう。
 
さらに陸機は、非常に剛直で、
他人との軋轢も多かったため、
彼を嫌う者も多かった。
平たく言えば、陸機は自身のこだわりが強すぎる為、
人の好悪がはっきりし過ぎて一部の人に嫌われていた。
 
特に司馬穎の元に集まっていた、下位層の者に嫌われていた。
 
陸機が軍勢を率いて洛陽を攻めるも、
軍勢が統制を取れず、全く洛陽を陥せなかった。
陸機に軍事経験がなかったことも大きい。
 
また洛陽の司馬乂もよく守った。
正論とは言え大義名分がしっかりしている軍勢は強い。
これこそが組織マネジメントである。
恵帝を奉じて、そもそも司馬乂に義ありと儒教的価値観から
モチベートできるのである。
軍卒の士気は非常に高かった。
 
そうしているうちに、
陸機のことを司馬穎に讒言する者が現れる。
 
簡単に洛陽を陥せると思っていたのに、
陥せずイライラしていた司馬穎は、まんまとその讒言に
乗ってしまい、
陸機・陸雲兄弟を処刑してしまう。
 
これにより、司馬穎は自身の限界を世間に知らしめてしまった。
輿論は、いとも簡単に高名な陸機・陸雲兄弟を殺したことで、
司馬穎を見限った。
司馬穎らが利で集まる単なるゴロツキであることに
気づいたのである。
 
いよいよ洛陽の司馬乂は意気軒昂、
士気も高く、どう司馬穎軍が攻撃しても陥落しない。
兵力も少なく、兵糧の準備もしない中の善戦であった。
 
これで戦いがイーブンで終わり、
各地で司馬乂サイドとして挙兵、
司馬穎と司馬顒は四面楚歌に陥り、自滅したとなれば、
これもまたわかりやすい。
 
しかし、そんな簡単には終わらないのが、
八王の乱である。

 司馬越の裏切り


303年8月から数ヶ月洛陽に籠城して、
司馬穎・司馬顒軍を撃退し続けてきたが、
304年1月司空の司馬越が司馬乂を裏切る。
諸将と示し合わせて、司馬乂を捕捉する。
厭戦ムードが洛陽城内に強く、将来展望を悲観した為であった。
司馬顒軍は撤退しようともしていたのに対応を早まった。
司馬越からすれば、成り行き上司馬乂陣営についたわけである。
司馬越には司馬穎・司馬顒とのリレーションがそもそもない。
司馬越は司馬冏政権の司空であり、司馬穎らに敵対していた。
司馬乂は司馬冏が滅びたのだから、恵帝をみんなで支えようと言うことで、
司馬越はそのまま司空であった。
司馬穎は洛陽には来なかったのだから、司馬越とは接点がないのである。
 
司馬越は宗族であるので、司馬乂の言う建前論など、
実力行使の前ではひとたまりもないと考えていて当然である。
権力者は現実志向である。
そして時代の風潮もあって、利己主義である。
厳しい籠城戦を行ううちに司馬越は司馬乂を見限ったのである。
 
この事件に反発する者も洛陽城内にいたため、
司馬越は早々に司馬乂を処刑。
火炙りで殺した。
 
司馬顒軍を率いる張方に連絡を取り、
即時停戦を求め、
司馬乂と司馬穎の兄弟喧嘩はここに終わった。