歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬穎・司馬遹 出自が悪いと何が悪いのか=畠山義就、豊臣秀吉からたぐる=

出自が悪いのは何が悪いのか。

 

 

司馬穎は、その出自ゆえに不利益を被った。

 

司馬穎を助けたのは、

恵帝の皇太子司馬遹である。

 

司馬いつも母が、屠殺業者の家の出で、

差別されるところ、

才能を武帝に愛され、皇太子に立てられていた。

 

差別の理不尽さを両者は理解する。

 

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当時の感覚として、それは何が悪いのだろうか。

二つある。

 

1点目は由緒である。

科学的に、どう言った人間かと定義できない時代においては、

血統のみが事実上唯一その人を定義することができる。

 

例えば、下記のようになる。

盧毓や盧志の范陽盧氏は、太公望呂尚の子孫である。

陸遜や陸機の呉郡陸氏は、田斉の宣王の子孫である。

王莽の魏郡王氏は、田斉最後の斉王建の末裔である。

 

だから、立派な人が出るものだ。

だから、あの人は教養があるのだ。

 

そのように、他人は勝手に理解する。

当人たちは、祖先の輝かしい威光を傘に、

自分をアピールする。

 

これだけで、なんとなく他人という得体の知れない存在を理解してしまうのだ。

 

なんとも便利なやり方である。

 

事実として、こうした血筋の良い名族は学問を修めた者が多く、

また当時高価だった書物も多く蔵書しているので、

子孫は教養を積めるということが大きい。

名族は名族だからこそ、教育機関にもなっている。

 

 

それが、一転、母が屠殺業者となると、

普段から、差別されているだけに、これは全く逆の効果を産む。

偏見が偏見を産み、非論理的なレッテルを貼られる。

 

司馬穎や司馬いつは、

父が皇帝なだけに、

他人からの注目を浴び、そして嫉妬も受けやすかった。

 

そこに、母の出自の低さは、

格好のゴシップである。

 

話というか噂に尾ひれがついて、

彼らは、見下される。

 

社会の不満のはけ口となる。

 

こうして、母の出自の低さは、理由なく不利であった。

 

 

2点目は、母の貞操観念である。

 

母の出自が低い、それは、教養がないということも

意味している。

 

 

にも関わらず、父は高位の人間なのだ。

 

何故手を出したのか。

 

父は高位で、母は低位。

母はシンデレラのような経験をする。

 

人々の嫉妬を受ける。

 

その時に何を考えるか。

 

そうだ、貞操観念が低いからそのようなことが起こったのだ。

普通はあり得ないことが、そこには起きたのだと。

 

ここで二つ事例を出したい。

①畠山義就

一つは、

応仁の乱で主役級の動きをした畠山義就である。

 

下記が参考図書である。

 

 

 

 

 

 

畠山義就の母は、結論として遊女である。

 

父は畠山持国といって、管領まで務めた有力者である。

畠山氏は源姓畠山氏と言う。

この源姓畠山氏は、

鎌倉時代、政変に敗れ滅びた畠山重忠の家(平姓畠山氏)を、

足利氏の庶子が継いだことで誕生する。

いわば、足利将軍家にとっての宗族であり、大変な名門である。

徳川幕府の御三家と同じ位置付けである。

 

しかし、母が遊女なので、

嫡子にならない。

畠山持国の男子は、この畠山義就しかいないのにである。

 

それは輿論が認めないのである。

遊女というのは様々な異性と関係を持つ者である。

 

畠山義就が持国の子であるということを保証することができないのである。

 

では逆に高位の人だから、保証できるのかといったら、

それは源氏物語を読めばわかるわけで、

単なる固定概念でしかないわけであるが。

 

ということで、義就しか男子のいない畠山持国は、

自身の弟持富を後継者とした。

しかし、やはり自分の子が可愛かったのか、

自分の遺伝子にこだわりたかったのか、

畠山持国は晩年畠山義就を呼び出し、跡を継がせる。

持富は2年後に死去する。

持国の突然の変更は、畠山氏の分裂を産み、

持富の子弥三郎と政長が、

家督継承の正当性を主張。

これが応仁の乱の遠因となる。

 

この時、政長陣営が義就陣営を批判する時には、

そもそも一度は持富に家督を譲ると決まっていたということはさりながら、

やはり出自である。

義就は庶子である、母が身分が低い、卑しい。

言いたいことはただ一つ。

 

畠山義就は、畠山持国の子供ではない。

畠山の血を継いでいない。

 

しかし、政長は確実に畠山の血を継いでいる。

そもそも父持富が家督を継ぐことになっていたわけだし、

私政長が畠山を継ぐべきだ。

 

 

貴種が今以上に尊ばれいた当時、

人々の共感を得やすいロジックであった。

 

一方の畠山義就は、

父持国の死の直前まで、

石清水八幡宮(源氏の氏神)の社僧になるべく育てられてきたので、

庶民の気持ちが理解できる。

それが畠山義就の強さであり、応仁の乱を天下大乱と成し得た理由でもある。

これ以上になると、大意からは逸れるのでこの辺までにしたいが、

母の出自が低いという意味は、

父が貴種であればあるほど、大きな問題を生み出す。

 

 

②豊臣秀吉

もう一つの事例は、

豊臣秀吉である。

 

母は大政所と呼ばれる、「なか」という人物である。

 

父は木下弥右衛門とされているが、

実は一説によると、

実は豊臣秀吉の父親ではなく、

さらに言うと、誰が父親かわからないのではないかという

主張がある。

 

私はこれを知った時に、「あっ」と思ったが、

豊臣秀吉の父親が誰かわからないという前提で見ると、

すっきりする部分が多々ある。

 

豊臣秀吉は、

継父竹阿弥に可愛がられていなかった。

それで家を出るのも理解できる。

 

その後、豊臣秀吉が立身出世したときに、

突如同母弟の秀長が登場するのも理解できる。

 

立身出世したからには、

秀吉には家来が必要であるが、血族から手をつけていくのが

もっとも手っ取り早かった。

 

非常に身分の低い秀吉のもとで仕えて欲しいといっても、

当時の感覚ではそう簡単にうまくいくわけがない。

身分の高い者が身分の低い者に好き好んで仕える時代ではない。

 

 

では、豊臣秀吉の父は誰なのか。

それを秀吉が母なかに皮肉っているシーンがある。

 

祭りをする際に、あなたはどのように振舞っていたのか、

と。

 

日本のお祭りで、見知らぬ男女が一夜を共にするのは、

今ではそれなりに知られている話だ。

 

それで子を成したとしても、

育てることになる。

配偶者がいたとしても、そうである。

 

当時の貞操観念ではそうだったと言えばそれまでだが、

もう少し現実的な話がある。

 

当時の子供というのは貴重な労働力であった。

子供はたくさんいた方が、

何かと便利であるというわけだ。

だから、どこの子供であっても、

自分の所有になるのは良いことであった。

 

大した財産があるわけでもないから、

子供が増えても問題はない。

 

田を耕す労働力が増えるのはそれだけで、良いことである。

 

豊臣秀吉の母なかがしたことは、

本来実は恥ずべきことではない。

 

しかし、豊臣秀吉が高位に昇ったから、

母なかは、顔を赤らめることになるわけである。

豊臣秀吉自身も高位に昇ったからこそ、

この出自に苦しめられる部分もあるが、

彼自体は、一世一代の稀代の英雄であるので、

それさえもはねのけ、関白となった。

 

ここでは、

畠山義就と豊臣秀吉の事例を挙げたが、

知って欲しいのは、母の出自が低いことによる、

周囲の目である。

 

当時の感覚では必ずしも偏見とも言い切れない、

ゴシップである。

本来は、財産がなければ何の問題もないのだ。

事実であろうがなかろうが、どっちでもいい。

しかし高位になると、相続権が発生する。

だから、誰が、正室で、嫡子で、という秩序がある。

その秩序を、武帝司馬炎や恵帝や畠山持国が乱すから、

このようなことになるのだ。

 

 

司馬穎や司馬遹は、

確実に父である武帝司馬炎や恵帝司馬衷に認められているのだから、

問題ないはずだ。

にも関わらず、当時の風習から考えると、

輿論がそれを認めないのである。