歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

八王の乱が終息した307年 生き残った王は?

 

八王の乱を生き残ったメインプレイヤーは下記である。

 

307年初頭の時点では、
八王の乱をメインプレイヤーとして戦った諸王の状況は下記の通り。

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①司馬朗家(司馬威)
301年4月、司馬倫に対するクーデターで復位した恵帝の意向で処刑。
②司馬馗家(司馬越)
③司馬孚家(司馬顒)
306年12月に処刑。
④司馬肜
302年5月病死。
⑤司馬倫
301年4月処刑
⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇)
司馬繇 304年8月司馬穎により処刑。トウインの戦いに際して降伏を促したため。
⑦司馬駿家(司馬歆)
303年に流賊の張昌と樊城において戦い敗死。
⑧司馬攸家(司馬冏)司馬師家でもある。
302年12月に処刑。
⑨司馬允
300年8月に司馬倫打倒の兵を挙げるも返り討ちにされ敗死。
⑩司馬乂
304年1月司馬越に裏切られ、処刑。
⑪司馬穎
306年10月司馬越により処刑。
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八王の乱を生き残ったのは、
司馬越・司馬睿・司馬澹
である。


上記の彼らは八王の乱が本格的に始まる前、
狭義の八王の乱の前から家を代表する人物としてピックアップしている。

それぞれの家の状況変化により、
例えば、下邳で司馬越に対抗した、
司馬望の子で、司馬朗家の司馬楙
も登場するので、事情は複雑だが、
ざっくりと考えると上記になる。
司馬澹はイレギュラーな事情のためだが、
司馬越と司馬睿はそのバランス感覚が身を助けた。
血も涙もないこの八王の乱において、
軍事力ではなく、政治力でまとめ切った両名は、
本来は相当な人物であったのだろうと私は考える。

1.司馬越

司馬越は八王の乱の勝者である。
卓越した政治バランスで、乗り切った。

2.司馬睿

司馬睿は後の東晋元帝である。
叔父司馬繇の驍名の陰に隠れ目立たないが、
司馬繇が304年8月に処刑されてから
活動が目立つようになる。
瑯琊王として、南隣の東海国を治める司馬越との常に
共同歩調を取ってきた。
305年8月から始まる、司馬越の洛陽侵攻作戦の際には、
下邳にて留守を務める。
307年間中に、司馬越から都督揚州諸軍事に任命され、
建業に赴く。
司馬越は、仲の良い弟三人がその実力の源泉となっている。
司馬越政権の中心は、
兄弟が占めるがそれを除くと、
次点は司馬睿である。
司馬越政権において、司馬睿の宗族中のポジションは、
相当に高い。
307年の段階で、
各地は騒乱の様相を呈している。
蜀は成漢に奪われ、
并州も匈奴劉淵の反乱により、風前の灯火だ。
その状況の中、
洛陽から最も遠方エリアの一つである、
揚州に司馬睿を派遣したのは、司馬越の信頼の証である。
司馬睿が司馬越を裏切らない、確実に治め切ってくれるという
信頼と期待の表れである。
この司馬越の決断こそが、晋王朝の延命を可能にしたのだから、
司馬越の司馬睿に対する見立ては正しかった。
司馬睿としても、司馬越に終始従うことで司馬越に掛けている。
その判断も賞賛されてもいい。
瑯琊王である司馬睿は、司馬越の封国東海国と領地を接している。
経緯上親密になることはあろう。
また瑯琊を安定させるためには東海国との関係性は重要だ。
しかし、それは司馬越にとっても同じ事で、
反司馬越陣営も司馬睿を切り崩そうとしたことは
あったはずだ。
それにもかかわらず、司馬睿が司馬越に掛けたのは、
司馬睿自身の主観的な判断による。
こうした経緯は、司馬越と司馬睿の信頼関係を構築させたと思われる。
余談だが、
司馬越の直系の子孫が滅びた際に、
司馬睿は自身の子孫を養子に出して、東海王家を継がせている。
このときには東晋の時代であり、
東海国の領地は既にない。
そのためこの意義は、元帝司馬睿が恩義と信頼関係のあった
司馬越の家を、自身の子孫に継がせることで、
司馬越らの祭り事を絶やさぬようにという配慮なのである。

 

3.司馬澹

司馬澹は、司馬繇との兄弟喧嘩により、
八王の乱を乗り切った。
政局にはあまり関係がない。
司馬澹は、司馬繇を遼東に流刑にした。
291年の司馬亮政権の時である。
司馬澹の妻は郭氏で、賈后に連なる者であったので、
賈后政権時には力を握った。
しかし賈后が司馬倫クーデターで打倒された後、
母諸葛太妃の訴えで、
司馬繇は中央に帰還、
代わりに司馬澹が流された。
この諸葛太妃は、諸葛誕の娘であり、
諸葛靚の姉である。
諸葛靚は、父諸葛誕が司馬氏に反乱を起こす際に、
呉に人質として出していたため、父の敗死後生き残った。
諸葛靚は呉で重用されたので、西晋による呉討伐の際にも、
主要な役割を果たした。呉滅亡後、武帝司馬炎により招聘されたが、
拒否し隠遁した人物である。
司馬繇は八王の乱の最中、
司馬穎に恨まれ処刑されるが、遼東にいた司馬澹は、
八王の乱とは無縁だった。
永嘉の末年に中央に戻され、九卿に
任じられたが、その後311年に石勒に殺された。
司馬越の洛陽脱出に付き従い、
その後の石勒の攻撃及び殺戮の害に、
司馬澹も巻き込まれたのだろう。