歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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304年7月蕩陰の戦いが、戦乱を中華全土へと拡大する。恵帝・司馬越 vs 司馬穎・司馬顒

恵帝・司馬越 vs 司馬穎・司馬顒

 

蕩陰の戦いである。

皇太弟とは言え、当然世継ぎである。

現皇帝と世継ぎの戦い。

歴史上稀有な戦いである。

 

 

司馬穎は、皇太弟、丞相、大将軍、都督中外諸軍事、

司馬顒は、太宰、大都督、雍州牧、

 

それに対して、

司空の司馬越は大都督に任命され、

恵帝を奉じて、出兵する。

 

司馬越の下での実行者は、右衛将軍の陳眕である。

 

陳眕は、賈謐二十四友の一人であり、

西晋崩壊後も東晋に仕えて生き残った唯一の人物である。

 

これに亡き司馬乂に仕えていた上官巳(ジョウカンシ)も

これに参画。

 

司馬穎政権が304年3月に発足して、4ヶ月足らずの

戦乱である。

 

【蕩陰の戦い 推移】

 

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出典:中国歴史地図集 譚其驤編集、中国地図出版社1982年10月版

 

 

 

司馬穎陣営に属していて、洛陽に駐屯していた

石超は鄴に逃亡。

石超は、西晋建国の元勲石苞の孫で、

金谷園のサロンを主催して賈謐二十四友を作った、石崇の甥である。

洛陽と鄴の距離は、大体東京から福島ぐらいの距離である。

 

広大な中国大陸の地図を見ていると、縮尺がわからなくなるが、

案外と両都市間は近接している。

 

鄴では司馬穎が善後策を検討。

その中で、東安王司馬繇(司馬伷家)が降伏を進言。

皇帝恵帝の親征のため罪を請うべきと正論を主張。

(なお、これにより戦後司馬繇は司馬穎に処刑される。)

 

まだ皇帝の権威が生き残っている証拠である。

 

暗愚暗愚と言われすぎると、恵帝のことを軽く扱いたくなるが、

恵帝の権威は大きい。

 

しかし、

司馬穎にとって今更受け入れられる話ではない。

相手は兵を出してしまっている。

振り上げた拳はどこかに降ろさなくてはならない。

人の生き死に関わる事態となってしまっている。

 

そう考えると、剛毅と言われた司馬繇は甘い。

 

司馬穎は、石超に命じて、

五万の兵を率いて、

蕩陰県に布陣している、恵帝・司馬越軍を攻撃させた。

 

【歴史的要衝 鄴】

 

 蕩陰は、鄴のある魏郡の一都市である。

洛陽から朝歌を過ぎて魏郡に入ると初めの都市が蕩陰である。

蕩陰を北に抜けると安陽、その北が鄴である。

鄴は現在は邯鄲市の一部である。

古の戦国趙の王都邯鄲の側にある。

 

古の邯鄲は戦乱により滅びているので、

邯鄲の後継都市が鄴と考えてよい。

 

【恵帝 捕虜となる】

 

 

石超は、恵帝・司馬越軍に急襲した。

恵帝は頰に傷を負った。

恵帝の身辺にいた侍中の嵆紹(竹林七賢の嵆康の子)は、

鎧を来ていなかった。それぐらいの急襲だった。

 

上記状況から石超の急襲は、

恵帝・司馬越軍からすれば奇襲だった。

 つまり、

偵察兵をこまめに出していないわけである。

司馬穎は鄴に籠城するはずと恵帝・司馬越は考えていた。

 

ここで恵帝は石超の捕虜となった。

嵆紹は恵帝のために身を艇して守り、斬り殺された。

恵帝は司馬穎のいるので鄴に護送される。

ここに

皇帝の権威は地に堕ちた。

 

恵帝・司馬越軍は潰走。

司馬越は、東方に逃亡。

下邳経由で、自身の封邑東海国に逃げ切る。

これにより、西晋の内輪揉めはいよいよ

中華全土に渡る戦乱へと発展した。