歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

304年8月司馬穎、鄴の失陥、305年7月司馬越挙兵

 

【司馬越逃亡、司馬穎逃亡】

 

304年7月蕩陰の戦いで司馬越は敗れ、

自身の封邑東海国へ逃亡した。

(東海国の郡治は郯県である。後漢の後半まで、徐州の州治も郯県だった。

現在の江蘇省連雲港市東海県。洛陽から見て東のはて。)

 

下邳に駐屯している司馬朗家の司馬楙に匿ってもらおうとしたが、

拒否されている。

 

しかしながら、蕩陰の戦いのすぐ翌月、

鄴が陥落する。304年8月のことである。

 

幽州の王浚と并州の司馬騰が、

北から鄴を攻撃。早々に陥落する。

 

司馬穎は、恵帝を奉じて洛陽に逃れる。

 

王浚は、幽州諸軍事である。

そして、烏桓と鮮卑族段部と友好関係があり、

両異民族の騎兵を有する。

 

并州の晋陽には、司馬越の同母弟司馬騰が都督并州諸軍事として駐屯。

都督并州諸軍事としての数年駐屯している。

鮮卑族拓跋部と長らく友好関係を結んでおり、

軍卒として率いている。

 

彼ら異民族の騎兵を中心とした、

王浚・司馬騰軍は、鄴を陥落させ、略奪の限りを尽くした。

 

【鄴の掠奪】

 

異民族の戦争というのは、

略奪が前提である。

 

勝者は、敗者の家財を略奪するのが、軍役に従事した褒美なのである。

これは匈奴冒頓単于の時代から変わらない。

 

八王の乱において、

これが、初めて異民族が中華の都市を荒らした最初の事例となった。

 

王浚は、幽州で独立勢力を保っていたが、

司馬穎はこれを好ましく思っていなかった。

司馬穎は、鄴から洛陽を窺うと、常に後ろにいる王浚の動向を気にしなくてはならない。

鬱陶しい存在である。

 

そこで司馬穎は、王浚の排除を狙って、腹心の和演を幽州刺史として派遣した。

 

しかし、王浚は并州の司馬騰と手を組み、和演を殺害、返り討ちにする。

 

この余勢を駆って、北から司馬穎を攻め、鄴を落としたのである。

 

司馬穎はこの攻撃を受ける際、

匈奴の劉淵を本拠地離石に赴くことを許可している。

司馬穎は逡巡しながらも、劉淵が熱心に匈奴の勇猛さを説くので

ついに許してしまった。

 

これにより匈奴が西晋から独立する。

 

【司馬穎の失脚】

 

匈奴の援軍は結局来ず、

司馬穎は、304年8月16日恵帝を奉じて何とか洛陽に逃げ落ちる。

 

しかしながら、洛陽は司馬顒の武将張方の

支配下にあった。

 

蕩陰の戦い後に、司馬顒が洛陽確保のために張方を派遣していたためである。

 

張方は残虐な性格で、礼を知らず、無法者であったため、

恵帝および司馬穎をぞんざいに扱った。そのまま、張方は304年11月

恵帝と司馬穎、司馬熾を、司馬顒の本拠地長安へ連れ去る。

 

 

304年12月司馬顒は用済みとなった司馬穎を皇太弟から廃し、

代わりに司馬熾を皇太弟とした。

 

武帝司馬炎の子はこの時点では、

恵帝、司馬晏、司馬穎、司馬熾の四人しか残っていなかった。

 

司馬晏は病弱で政務を行えないため、最後の皇太弟候補者は

司馬熾のみとなっていた。

 

ここで、司馬顒は、司馬越を司空から太傅に昇進させ、

和解をしようとした。

しかし、司馬越は太傅を辞退、徹底抗戦の意思を示した。

 

洛陽以東の中原、山東エリアは、

司馬顒派と司馬越派に分かれて争った。

 

【司馬越挙兵】

 

305年7月司馬越は、対司馬顒の兵を挙げる。

 

 

下邳(カヒ)に駐屯する、司馬朗家の司馬楙(司馬望の第四子)は、

司馬越に対抗する姿勢を見せるも、

幕僚が司馬越に与する方がよいと進言。

司馬楙は下邳の軍権を司馬越に提供。

 

 

許昌にいた、従兄弟の司馬虓(しばこう)は司馬越に同調。

なおこのころ、賈謐二十四友の、劉輿・劉琨兄弟を幕僚に迎えている。

 

 

并州は司馬騰、

幽州は王浚、両者とも司馬越派として動く。

 

 

さらに司馬越の弟、司馬略は青州を、

司馬模は冀州を押さえる。

 

司馬越は、下邳を司馬伷家の瑯琊王司馬睿に留守させ、

自身は沛郡の蕭県に進駐。

 

【司馬顒の反抗】

 

一方、

司馬顒サイドは、

司馬穎を都督河北諸軍事として鄴、

呂朗を洛陽に派遣した。

 

河北では司馬穎の旧将公師藩が司馬穎のために兵を挙げていたため

司馬穎を派遣した。

 

合わせて、張方を大都督として、10万の兵を預けて、

攻勢に出ようとしていた。

 

このころ、司馬越陣営の司馬虓は、滎陽に進駐していたが、

司馬虓不在の許昌を豫洲刺史の劉喬が奪っていた。

 

 

劉喬が勢力を維持していたため、

むしろ司馬顒サイドの方が優勢であったが、

都督荊州諸軍事の劉弘が司馬越サイドについたことで、

情勢が一変する。

 

豫州刺史の劉喬は、司馬越を攻撃。

一度は司馬越は敗れる。

だが、滎陽にいた司馬虓が騎兵800を持って、

司馬越を迎えさせ、

再度劉喬軍と再戦。

司馬越軍は勝利を収める。

 

司馬越軍は洛陽の北、温県まで進駐。

 

司馬越の勢いに恐れをなした司馬顒は

張方を切り殺して首を差し出して、司馬越に帰順の意を表した。

 

 

しかしながら、司馬越は司馬顒の降伏を許さない。

 

【司馬越、政権掌握】

 

306年5月、

司馬越軍は長安に侵入。

この軍勢には鮮卑族などの異民族が従軍しているので、

先の鄴陥落の時と同様の掠奪が行われた。

 

恵帝は、司馬越の軍勢には守られて、

306年6月ようやく洛陽に帰還することができた。

 

306年8月、

司馬越は太傅・録尚書事となり、

政権を掌握。

司馬虓は、鄴、

司馬模は、許昌に出鎮した。

 

司馬穎は公師藩のいる河北に逃げようとしたが、

途中で鄴の司馬虓に捕らわれる。

 

司馬虓は、司馬穎を処刑するつもりがなかった。

しかし、司馬虓自身が、306年10月に急死。変死といってもよい。

 

司馬越は劉輿の進言に従って、

司馬虓の喪を秘し、司馬穎に死を賜り、司馬穎は306年10月に殺される。

当然陰謀の疑いがある。

 

恵帝が306年11月に餅を食べて中毒を起こし、

崩御。

 

司馬顒は306年12月に捕獲され、処刑。

 

これにより八王の乱は司馬越の勝利に終わった。