歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

八王の乱が終焉した307年初頭 西晋各地の情勢について~四方を固める司馬越四兄弟、司馬睿の東晋独立の契機、懐帝の謀略~

307年の情勢

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(引用元:中国歴史地図集 中国地図出版社1982年10月版)

・濃青が司馬越四兄弟

・青は西晋

・赤は西晋敵対勢力

・緑は西晋とのアライアンス勢力

(西晋は不倶戴天の中華思想なので、傘下と思っているが)

 

 

 

司馬越四兄弟:

307年の3月に司馬越兄弟がそれぞれ下記のように出鎮。

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司馬越 許昌

司馬騰 鄴

司馬略 襄陽

司馬模 長安

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洛陽を囲む主要都市に出鎮。四方を固める。

当然都督諸軍事として各軍権を保持するが、

西晋における出鎮は、権力抗争の結果起きるものだということを

忘れてはいけない。

西晋の最高権力者は、帝都洛陽を開けるのを嫌がる。

それは249年正始政変で曹爽が滅びて以来の慣例だ。

権力が確立していないときの、

司馬師・司馬昭は洛陽を空けるのを極力嫌がった。

賈充が長安に出鎮させられそうになった際には、

強引に婚姻を進めて洛陽に残留したほどだ。

楊氏と対立する司馬亮は、

洛陽を逃れて、封国の汝南に一旦逃れた。

出鎮=何らかの権力争いがあると考えて良い。

この時期、各地が司馬穎、司馬顒の残党、および異民族の

動きが大変活発になっており、

その鎮圧であると納得できる情勢だが、

そう事情は単純ではない。

司馬越が政権を取ってから、まだ半年強しか経っていない。

政権掌握を確実にする前に恵帝は崩御してしまった。

後を継いだ懐帝は、司馬顒が擁立した皇太弟であり、

反司馬越である。

懐帝にとって邪魔な司馬越兄弟を早速出鎮させた。

理由は、各地の反乱鎮圧である。

実際に司馬越はこの後汲桑の反乱討伐などをしているので、

それも理由であろう。

司馬越が高を括っていたのかもしれない。

しかし、懐帝には確実に意図があった。

これで有力な宗族は洛陽にいないのである。

懐帝にとって清々しいものであっただろう。司馬越は考えが甘かったのである。

懐帝は、司馬越を排斥しようと手ぐすねを引いていた。

さて、中華各地の情勢を確認したい。

 

幽州:

王浚の勢力下。

烏丸と鮮卑段部と良好な関係を保つ。

最も安定しているエリアである。

事実上王浚が独立王国を築いてしまっている。西晋には協力的。

王浚は太原王氏の出である。庶子。

 

并州:

司馬越の同母弟司馬騰が少なくとも7年以上統治してきたエリア。

北方にいる鮮卑拓跋部と良好な関係を保つ。

しかしながら、司馬穎が解放した匈奴の劉淵が、

并州の西端離石で挙兵しており、治安が悪化している。

そうした状況の中、司馬騰が鄴に赴任することとなった。

司馬越兄弟の従兄弟司馬虓が鄴を管轄していたのだが、

306年10月に変死。この変死について詳細は明らかではないが、

私は司馬穎勢力の残党の巻き返しと見る。

司馬穎は未だにこの時点で人望があった。

司馬虓は司馬穎を鄴にて捕虜として確保していたが、

それを取り返す、もしくは処刑の中止を狙ってのものと見られる。

なお、司馬虓は司馬穎の処刑をするつもりがなかった。

司馬虓の変死により、司馬越の参謀で賈謐二十四友の一人、劉輿の

進言により、司馬穎を処刑する。

司馬穎勢力としては、司馬虓の暗殺成功が仇となった。

しかし、司馬虓に司馬穎処刑の意思がないことを知らないのだから

やむを得ない。

 

司馬越は司馬騰に西晋の副都という重要都市で、

司馬穎の旧本拠地鄴を、司馬騰に預けた。

司馬越にとって、司馬騰は信頼の置ける同母弟であり当然の措置である。

 

しかし、それにより、匈奴の劉淵らの勢いが増してしまうというのが、

并州の状況である。

司馬騰の後任は、劉輿の弟劉琨である。

 

関中(雍州):

 

長安に司馬越の弟司馬模が出鎮。

このエリアは、西晋期において、

騒乱が絶えない。

269年から10年続いた鮮卑の禿髪樹機能の反乱に始まる。

296年には斉万年の乱が起こる。

斉万年は氐の総帥であった。斉万年は皇帝を称し、反乱を

続けたが、299年に鎮圧される。

斉万年は氐族のみならず、匈奴の一派からも推戴されていた。

これは後漢時代から、異民族の内徙が進んでいたためである。

内徙とは、異民族を中華の領域に強制移住させることである。

これで、漢民族との同化が進めばよいが、そうなるわけもなく、

当然のごとく差別された。

それだけではなく収奪の対象となった。

物がなければ最後には異民族自身が売られる。

場所は并州であるが、

司馬騰配下の者が石勒を捕まえて首枷をはめて奴隷として

売り払った、これは端的な例である。

そのため内徙された異民族は当然漢民族を恨んだ。

同化することはなかった。

だから異民族は漢民族の王朝が衰退すると反乱を起こす。

例えば涼州ではあるが、後漢末の董卓や馬超、韓遂は、羌族の支持を受けて

強い勢力を誇った。

董卓、馬超は羌族の血が入っている可能性が高い。

韓遂は、彼ら異民族に配慮した行政を行なったことで支持された。

このように100年以上かけて、関中は現代のバルカン半島のように、

民族のモザイク化が完成されていたのである。

300年に起きた司馬倫の対賈后クーデターに加勢したことで、

長安にいた司馬トウが洛陽に移り、

変わって司馬顒が長安に出鎮する。

異民族の反乱が鎮圧され、落ち着いたタイミングで

司馬顒は長安に入っている。

その後は司馬顒は司馬穎と手を結びながら、

八王の乱を戦い、最終的には司馬顒は自立して恵帝を長安に

迎えるまでになる。

しかし、衆寡敵せず司馬越勢力に押され、

司馬顒は逃げ回るも、敗死する。

その後は、司馬顒の残党や、モザイクのように異民族が

分布。

関中の情勢も不安定であった。

 

徐州:

司馬越の本拠地である。

下邳に大きな兵力が駐屯している。

下邳の北が東海国、その北が瑯琊国でこちらは司馬睿の封国である。

そのため、徐州は安定している。

 

豫州:

司馬越が許昌に出鎮して管轄。

 

兗州:

兗州刺史として、苟晞が駐留。

苟晞は寒門の出身である。

武帝司馬炎の時に、侍中であった司馬越が推挙したと晋書にある。

兗州は司馬越の本拠地徐州の隣なので、苟晞は司馬越の与党だったのだろう。

307年に兗州で乱を起こす旧司馬穎勢力の汲桑を対峙する。

揚州:

揚州は武帝司馬炎の子、

司馬允の管轄であった。

司馬允は武帝司馬炎崩御の前年289年に、

淮南王都督揚江二洲諸軍事となっている。

彼は、301年8月に、専横を極めていた司馬倫に対して兵を挙げるが、

敗死してしまった。

その後は状況が不明である。

304年に顧栄が難を逃れて、江南に里帰りをしている。

顧栄は、江南の名族で、三国呉の丞相顧雍の孫である。

俊英であり、陸機・陸雲兄弟と共に讃えられ、

三俊と呼ばれていた。

顧栄が難を逃れた背景は、

蕩陰の戦いで恵帝が司馬穎に捕らわれ、

その後の司馬越サイドの巻き返しにより、恵帝が長安に連れ去られたタイミングである。

304年の後半のことである。

301年8月から304年の後半までは、

八王の乱の状況が目まぐるしく変わる時期で、

事実上揚州を治めた者はいなかったのではないか。

それを裏付ける話として、

顧栄が江南に難を逃れ、その翌年司馬越が下邳で兵を挙げると、

顧栄は協力している。

顧栄が事実上江南を掌握している証拠である。

比較的安定していた揚州を、

司馬越は瑯琊王司馬睿に預けた。

それが307年中である。都督揚州諸軍事に任じている。

290年の武帝司馬炎崩御から、

優秀な司馬允が統治して、

その後の空白期間があったものの、

顧栄が混乱を収めた。

307年には、司馬越の信頼が篤く、安定したバランス感覚を持つ

司馬睿が赴任してきたことで、揚州は安定する。

荊州:

元々は、武帝司馬炎の子楚王司馬瑋が、

都督荊州諸軍事として管轄していた。

しかしながら、司馬瑋は賈后に騙され処刑される。

その後は、不明。

301年4月司馬冏の司馬倫クーデターの際、

司馬師・司馬昭の弟の司馬駿家の司馬歆が協力して

功績を挙げ、荊州は司馬歆の管轄となる。

都督荊州諸軍事、鎮南将軍、開府儀同三司に任じられる。

司馬冏は302年12月に司馬乂により処刑。

その後、司馬乂と司馬穎・司馬顒が対立する。

そうした中央の権力争いの中、荊州では、

303年5月に

張昌の乱が起きる。張昌は義陽蛮である。

司馬歆は張昌の反乱を鎮圧しようと、

樊城で戦うが、逆に戦死。

この討伐に際して、荊州刺史に任命されていた劉弘が

張昌との戦いを継続。

劉弘は羊祜の参軍、つまり側近であり、

その有能さは想像がつく。

更に、劉弘の司馬に後に名将と言われる陶侃(トウカン)が

いる。

東晋の西府軍の元を作った人物である。

陶侃が東晋に仕えたので、荊州は東晋の統治となった。

 

話を戻すと、

劉弘は304年8月に張昌を捕らえて処刑。

乱を鎮圧した。

 

劉弘は306年8月に死去。

劉弘が死去した306年8月に司馬越が政権を掌握しているが、

陶侃は司馬越の参軍となっている。

陶侃自身は引き続き荊州にいたようだが、

司馬越勢力に属さない勢力もあった。

荊州は引き続き不安定な状況であった。

 

益州(蜀):

成漢が304年に成立。

巴氐という異民族が王朝を打ち建てたため、

西晋の支配が既に及ばなくなっている。

涼州・隴:

301年より涼州刺史として張軌が駐留。

各種異民族の反乱が多々起きるが、何とか鎮圧し続け、

勢力を保ち続ける。