歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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軍勢の中身から辿る、310年11月司馬越の江南逃亡。~事実上の「遷都」作戦②~

前項では、政治情勢から司馬越が司馬睿のいる江南、建業に向かっていたことを

説明した。

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今回は軍勢の中身から辿っていく。

 

よくこの逃避行は司馬越の封邑東海国を目指していたとされる。

 しかしそれはあり得ない。

 

司馬越、東海国は目指さない、その理由

 

理由は二つである。

 

◆実はこの集団は「軍勢」ではない。

そもそも、

この軍勢は、実態は「軍勢」ではない。

司馬越派の貴族層を護衛した集団である。

集団の中身については下記に記す。

 

 

東海国では、この「軍勢」ではない10万人の集団を抱えきれない。

10万人の軍勢を東海国では養いきれない。

この10万人の軍勢はただ東海国に生産拠点があって向かうのではなく、

ただ疎開してきただけである。

食い扶持もない人たちを東海国では養えない。

さらにそもそもこの「軍勢」は軍隊ではないのである。

女子供、文官、多分宦官などもいたはずだ。

朝廷の一定の部分を移動させている。軍隊よりもさらに

食糧確保が必要なのである。

 

310年11月まず司馬越は、

10万の軍勢を率いて洛陽を離れた。

最高権力者の司馬越を筆頭に、

この「軍勢」の中身、一緒に移動する人物を下記に羅列する。

 

司馬越の軍勢に従軍する者たち

宗族

 

宗族では、

・襄陽王司馬範(楚王司馬瑋の子。)

彼は司馬越にとって非常に重要なパーツである。

皇位継承権があるからである。

西晋は、武帝司馬炎家しか皇帝になれないという伝説を戴いた王朝である。

宗族と言っても、例えば司馬越のような司馬八達の子孫に過ぎない者は、

皇帝になれない。どうしてもなりたいのであれば、司馬倫のように簒奪するほかない。

なので、この司馬越の軍勢に、武帝司馬炎家に連なる司馬範を従わせているということは、

行き先で皇位を主張できる。司馬範はそのためのパーツなのである。

 

・武陵王司馬澹(司馬伷家。司馬睿の叔父。司馬繇の次兄)

賈充・賈后家に連なる郭氏を正妻に娶っていた人物。

弟の司馬繇と不仲で司馬亮に讒言をして遼東に流刑にした。(291年

その後司馬倫がクーデターで賈后政権を打倒すると

母の諸葛太妃が司馬繇をかばい流刑の解除を申し出る。

その一方で、司馬澹をけなす。

逆に司馬澹が遼東に流される。(301年

その後許されて、洛陽に戻っていた。(時期は不明)

司馬繇は304年7月の蕩陰の戦いに際して司馬穎に対する献言が出過ぎたものであったことから

処刑されている。

 

ここにも司馬越と司馬伷家との良好な関係を窺わせる。

このような経緯のあった司馬澹は司馬越を信じてこの軍勢に参加している。

司馬越が司馬澹を保護していた。

司馬越四兄弟の司馬馗家と、司馬澹・司馬睿の司馬伷家の同盟は手堅い。

 

・任城王司馬済(司馬八達の8番目司馬通家。司馬陵の子)

・西河王司馬喜(司馬八達の8番目司馬通家。司馬斌の孫)

・梁王司馬禧(司馬伷家。司馬澹の子)

 

斉王司馬超(司馬冏の子)

元々司馬越は司馬冏政権で司空に昇ったことから、八王の乱に絡んでいく。

その前に司馬泰が299年に死去し、喪に服していた。

その間に賈后を司馬倫が打倒し、司馬冏が政権を取ったころに司馬越の喪が明けたという

時系列となる。

経緯上ではあるが、父司馬泰は賈后政権を宗師として積極的に支えていた。

それを打倒した司馬倫を打倒した司馬冏には協力しやすかった。

また、司馬冏は、賈后の甥である。異母姉の子なのである。

司馬冏政権は賈后政権を継いでいるともいえなくもない。

司馬冏が司馬頴の檄の下、司馬乂にまさに襲われる前に、

司馬越は王衍とともに、司馬冏に対して政権を降りるよう進言している。

それは結局司馬冏に聞き入られることはなかった。

だが、それは真心のあったものなのだろう。

だからこそ、司馬越の逃避行に司馬冏の息子が従っているのである。

 

司馬越の家族

 

司馬越の家族は、

・司馬越の正妻裴氏、

・司馬越の世子司馬毗

司馬越は男子が一人のみなので、一家勢ぞろいである。

 

 

貴族高位層(名族含む)

 

・太尉の王衍

琅琊王氏。

従兄弟は竹林七賢の王戎。族弟に王敦、王導がいる。

特に、王敦、王導は310年時点で江南・建業にいて司馬睿を補佐していた。

竹林七賢最後の生き残りが王戎であった。

王戎亡きいま清談の流れを継ぐのはこの王衍。

廃太子司馬遹の舅でもあった。当代一の知識人。

山濤、武帝司馬炎にも認められる清談の名手。

司馬越の死後、この軍勢の総帥に就任するが、石勒に襲われ壊滅する。

石勒に命乞いするも西晋滅亡の責任はあなたにあると罵られ、

最終的には処刑される。

三公の太尉の王衍が従軍しているということは、

この軍勢が西晋軍の中核なのである。

軍事権を統括するのが太尉の役割である。

司馬越は丞相だが、これは首相格であり、

太尉は国防大臣である。

両名とも洛陽にいない。

 

九卿、廷尉の諸葛銓瑯琊諸葛氏。諸葛緒の孫。

九卿はすなわち九人の大臣の意味だが、

常に九人常置されているわけではない。

 

三公の下のポジションであり、

複数名の大臣がいるというとらえ方が正しい。

 

そのうちの一人が参加している。

これでは朝廷が適切に運営されないのだ。

 

廷尉は法務大臣である。

法の執行が行われないこととなる。

法の運用ほどややこしいことはない。

当事者トップがいなければ、国内は法治されない。

官僚を統制できないし、犯罪を抑制できない。

統治ができないことと同意である。

 

劉望

吏部尚書

吏部は官吏の採用統括である。

尚書の機能は、吏部・左民・客曹・五兵・度支とあるが、その筆頭。

録尚書事の司馬越の側近である。

人事権を掌握する。当然帝都洛陽で面接をするので、

軍勢に参加するということはその意味は如何ということだ。

 

・劉喬

豫州刺史

305年の司馬越反抗の際に、積極的に豫洲において司馬越に協力したのが、

劉喬である。豫洲刺史であったが、この軍勢に従軍している。

 

・庾

太傅長史

太傅は司馬越であり、その属官の筆頭が長史である。

諸葛孔明の長史は、楊儀

 

 

このように、

司馬越は、多数の護衛を連れながら、

自身司馬越派の人間10万人を抱えられ、

かつ、

異民族からの圧力から逃れられる場所に向かっていた。

 

それは、

蜀でなければ、

呉しかないのである。この310年の時点で、西晋は既に蜀を成漢に奪われていた。

 

呉に朝廷を移す、それが司馬越の計画であった。

 

しかし、

司馬越の病死によって計画は頓挫。

石勒によって捕まり、上記全員殺害される。