歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

310年11月司馬越軍の行き先は石勒討伐ではない。~④軍事戦略から紐解く~

 

31011月司馬越は、

石勒討伐のため、洛陽を出発したと良く言われる。

 

史書にも、

司馬越は懐帝に対してそう説明しているので、

そう考えるのだろう。

 

しかしながら、言葉通りそれを信じることはできない。

 

言葉通りに捉えればそうだろうが、

司馬越がそう言ったからといって、実際にそうしようとしていたかどうかは

別の問題だ。

 

司馬越と懐帝は対立し、暗闘していたのだが、その前提がなければ思いもよらないのかもしれない。しかし司馬越の行き先について、さすがにさらっと流しすぎだと私は考える。

 

さて、

政治情勢

www.rekishinoshinzui.com

軍勢の中身

 

www.rekishinoshinzui.com

地図

 

www.rekishinoshinzui.com

と三つの観点から司馬越の行き先を解いてきたが、

ダメ押しで、

石勒の動向から説明したい。

 

石勒はどこにいたのか。

 

司馬越が洛陽を離れた当時、

石勒は、潁川郡の襄城から荊州の襄陽のエリアで、

各地を進撃していたのである。

 

石勒という西晋のカタストロフィ。

(カタストロフィは、大破滅、悲劇的結末、破局などの意味)

この存在は、西晋を終局へと導いた存在なのだが、

あまりフォーカスされない。

 

西晋を事実上滅ぼしたのは、石勒である。

匈奴ではない。

匈奴漢の劉聡、劉曜が西晋にとどめを刺したが、

攻撃したのは石勒が破滅させた後の残り滓である。

 

石勒が散々中華を荒らしていたのは、

軍勢を維持するための掠奪と割拠するエリアを探していたためであった。

 

石勒が匈奴に取って客将ながら、

著しい力を持ったのは、石勒が戦上手であるというのが一つの理由だ。

 

異民族の将軍は必勝を求められる。

そうではないと、勝利の褒賞である掠奪の権利が得られないからだ。

 

勝っている限りは、将卒の支持を得ることができる。

これは北方の異民族の鉄則である。

 

しかし、襄陽は攻めあぐねた。

襄陽は漢水の南岸にあり、漢水の北岸樊城と対となる。

この二城連携は厄介で、漢水という大河も絡むので、

騎兵だけの軍勢では難しい。

言い方を変えると、

華北からずっと南下し、

この襄陽・樊城で戦い方が変わるのだ。

 

水軍を用いるなど、水を意識した戦い方をしなくてはならない。

 

当然、石勒がそれを知る、知っていたとしてもその備えはないので、

ここが行き止まりとなる。

 

さて、

この襄城と襄陽の間をウロウロしている石勒軍に司馬越軍が当たるならば、

許昌を本拠に事を構えるはず。

しかしそうはせず司馬越軍は、東下した。

 

許昌のすぐ東にある襄城からすれば、

司馬越軍は石勒に背を向けたことになる。

 

この一つだけを取っても、

司馬越軍が石勒討伐が目的ではないと言える。

 

敵に背を向けるなど、戦う軍勢がすることではない。

もしくは陽動作戦か。

10万の軍勢を許昌に布陣させ、

石勒軍が疲れ果てるのを待つ方が得策だとは思うが。

この時点の石勒軍は補給は略奪で、補給拠点がないのである。

 

尚、司馬越は戦下手ではない。

ほかの八王、諸王に比べて、

積極的に各地を転戦して戦っているし、

汲桑配下時代の石勒を敗退させたこともある。

 

石勒は311年初頭、荊州江夏を攻撃していた。

 

さて、司馬越は潁水を東下したが、

石勒は、311年初頭には荊州の江夏を攻めた。

 

f:id:kazutom925:20170710134638p:plain

 

司馬睿は石勒の動向に不安を覚えて、

王導に兵を持たせて、石勒討伐を命じている。

 

江夏は、襄陽から随県を通過して、南東にある。

その南方は、完全な湿地帯で、

騎兵は使えない。

ということで石勒軍からすれば、

ここは南の端である。これ以上行けないのだから。

 

ということで戻るが、

ここで不可思議な行動を取る。

 

随県に戻ったのは間違いないが、

ここから東に方向転換し、

新息方面に向かうのだ。

 

ここは、通常の街路ではない。

山岳地帯である。当然山岳地帯では騎兵を十分に使いこなせない。

 

明らかに何らかの意図がある。

 

ここを越えて、豫州に出て、

3112月に新蔡を落としている。

ここから真北にこの後司馬越らが駐屯することになる項県がある。

 

石勒軍は新蔡を抑えて、司馬越軍を待ち伏せする形を取ったわけである。

明らかに石勒は司馬越軍に狙いを絞った。

 

司馬越が病に臥せったために、

項県に駐屯せざるを得なかった軍勢。

 

3113月に司馬越は死去する。

 

満を持して司馬越軍に攻めかかる石勒

 

石勒は3114月に故司馬越軍に攻めかかる。

総大将は王衍が指名されたが辞退していたので、

総大将は不在だった。

 

数で言えば、故司馬越軍が圧倒的だったはずだが、

騎兵主体の石勒軍は、

弓と遊撃戦を巧みに使って、故司馬越軍を壊滅させた。

 

石勒軍からすれば、

相手は輜重部隊が中心で、女子供も多く、

かつ騎兵もいない。

基本的に漢民族は騎乗できない。

そんな集団を、石勒率いる騎兵がぐるぐる取り囲み、

弓矢で遠くから攻撃したらひとたまりもないだろう。

馬車の御者を遠くからまず射る。

御者がいなければ、馬車は動けない。

石勒軍がしっかりと弓矢を掠奪、補充していれば確実である。

石勒軍はひと月は司馬越軍の様子を見ていたと思われるので

準備は万端だ。

故司馬越軍からすれば盗賊に遭遇した気持であっただろう。

石勒にとっては千載一遇のチャンスであった。

この軍勢を皆殺しにすることで、

石勒は、事実上西晋を滅亡させることになる。

 

結論として、

311年初頭には江夏を攻めている石勒軍を追撃している

方角を司馬越軍は取っていなかった。

 

更に石勒軍の動向を掴む、偵察さえ出していないのに、

捕捉できるわけがない。

 

偵察を出していないから、上記のように

待ち伏せを喰うのである。

 

ということで、

司馬越の軍勢は初めから石勒を狙っていないのである。

 

その意図は、逃亡である。