歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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「鄴」の地政学的位置づけ

 

 

鄴は覇者の地

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中華と異民族の地の結節点

 

鄴は結論として、

中華と異民族との結節点にある。

 

 

鄴は并州から中原へ出ると、最初に辿り着くエリアにある。

 

 

并州を中華と見るか、異民族の地と見るかは見解によって

変わるがいずれにしろ、異民族がいることには違いない。

 

匈奴、鮮卑、羯、烏丸と時代によって変わるが、

西晋末期までにはこれらの異民族がモザイク状に割拠していた。

 

軍事力=馬

 

彼ら異民族のキーワードは軍事力である。

それは騎兵を操ることができることにより担保されていた。

 

現代の我々には理解しにくいかもしれないが、

車など移動機械がない時代において、

高速移動を可能にする馬を異民族が生産できるのは脅威である。

 

現代の感覚でいうと、

中華の人たちは自動車を持っておらず、

異民族は自動車を持っているので、

中華の人たちは買うしかない、そういう状態である。

 

この「古代の自動車」と言える馬を調達することができると、

高い軍事力を保持することができた。

 

移動の距離、持久力、突撃という攻撃力。

全てにおいて白兵に凌駕する。

 

乱世において、この軍事力を握ることは

大変難儀だったが重要であった。

 

そのため、中原において、

覇を競うには、中原でありながら、

異民族の持つこの馬を手に入れられる土地に

本拠を置くことが求められた。

 

それが鄴なのである。

 

并州・幽州の掌握 曹操覇業を助ける鄴

 

鄴は西に行けば、并州の上党、さらに西に行くと晋陽、

さらに西に行くと匈奴の生息地、

晋陽から北に雁門関を越えると、

代に辿り着く。

ここは烏丸が居たり鮮卑が居たり。

 

さらにその北に行くと、

古の冒頓単于の本拠地、

また盛楽という拓跋鮮卑の本拠地もある。

 

并州全体が異民族の割合が相対的に高いエリアである。

 

このエリアに直接アクセスができる中原の地は鄴しかない。

 

魏の曹操はここを本拠にして、覇権を確保した。

 

さらに鄴は中原におけるアクセスも良い。

 

中華文明発祥の地で、2000年の都、洛陽には、

鄴から南西にひた走って下り、黄河を渡れば辿り着く。

 

北はもう一つの異民族との結節点、

幽州の薊、現在の北京に到達する。

幽州も北、東とも異民族との境を接しており、

馬の調達に困らない。

また、朝鮮方面、またその先の日本との交易も期待できる。

 

鄴は、この幽州を握るためにもうってつけの場所である。

 

鄴に近い条件を備えた、この薊であるが、

如何せん中原から遠い。

中原を支配するという意味では、少々中原から離れすぎであり、

何よりも鄴に強力な勢力がいると、中原に出られない。

閉じ込められてしまう、移動の自由が効かなくなるという

不利な点がある。

 

そういう点では鄴に劣る。

 

なお、

この幽州薊から鄴、そして洛陽に至るルートは、

大行山脈沿いのルートで、

黄河の乱流の影響を受けない。

 

水害に比較的強い土地である。

 

攻撃的な覇者は南北回廊の中心地鄴を押えて華北を席巻する

 

騎馬の移動に支障のない地で、

この回廊を確保することは戦略上非常に重要な意味を持つ。

 

そして、

鄴は東に中原を見据えるエリアにある。

 

東に兗州、青州方面にアクセスができる。

これらを抑えてしまえば、鄴を越えずして、

アプローチができない。

 

鄴はそれほどに重要な土地なのである。

 

この構図を作ったのは、

戦国趙の武霊王である。

 

鄴の北、邯鄲に都を置き、

并州の異民族討伐を行い、代まで押さえたのが

この武霊王だ。

 

邯鄲の北は中山国を滅ぼし、

燕を影響下に置きながら、中原にて覇を唱える。

 

異民族の持つ騎兵の力を実感した武霊王は

胡服騎射を実行する。

 

邯鄲、後に邯鄲は滅び、すぐ南の鄴がそれに代わるのだが、

この邯鄲にいて、

異民族の力をふんだんに使って中原の覇者となり、

洛陽の周王を押さえ込んだのは武霊王に始まる。

 

魏の曹操はそれに倣ったはず。

 

西晋の時代でも鄴という軍事的重要性は変わらず、

八王の乱で鄴を押さえたものが力を握るのはそのためだ。

 

五胡十六国になると、

今度は、石勒が襄国に本拠を置く。

鄴が八王の乱で破滅したため、

鄴の北の襄国に拠点を移したのだ。

 

鮮卑慕容部の前燕という極めて攻撃な軍事国家は鄴を帝都にしている。(二代皇帝慕容儁のとき)

 

代を故地とする、北斉も鄴が帝都である。

北斉の皇帝(高氏)は六鎮の乱で名を挙げた。六鎮と呼ばれる辺境の地の出身である。

六鎮は代の中心都市平城(いまの大同)の北方にある。代の北辺だ。

この高氏が事実上北魏を滅ぼした。その後、

関中の北周宇文氏と激しく凌ぎを削った。

 

攻撃的な軍事勢力を築いた英傑たちは、

みな鄴もしくはその周辺に

本拠を置いている。これは注目に値する。

 

華北における鄴の軍事的優位性は非常に

際立っている。

軍事力の源泉、馬を供給できる。

中原に易々と行動でき、支配することができる。

中華の文明力を手に入れることができる。

異民族と漢人の地の両方を支配できる鄴。

 

この地政学的に有利な鄴という存在を発見した、

趙の武霊王以来、

数々の戦上手たちはこの鄴を非常に有効活用してきたのである。