歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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懐帝と司馬越、対立の構図は八王の乱を継承。懐帝の暴挙が曹魏末と同様の状況を引き起こす。

 

八王の乱の対立図式は、最後に司馬越対懐帝に終着する。

 

懐帝は、

司馬顒、司馬穎に連なる。

彼ら司馬顒、司馬穎は司馬倫、恵帝皇太子司馬遹に連なる。

 

司馬越は司馬冏に連なる。

司馬越が三公のひとつ司空に就いたのは司馬冏政権なのである。

そして賈后にも連なる。

司馬冏は賈后の甥である。司馬冏は賈后系なのだ。

司馬越の父司馬泰は賈后政権を太尉、宗師として支えた。

賈后を倒した司馬倫を倒して、司馬冏は政権を樹立した。

 

上記の通り、司馬倫には、司馬顒、司馬穎が連なる。

 

このように、

実は、対立の構図は西晋が滅亡するまで変わらないのである。

 

 

西晋皇帝権の完全失墜

 

恵帝が存命のときには、

両者の勢力均衡というのがあり得た。

両勢力とも恵帝の意向ありきなのである。

恵帝の支持があって、大義名分を得られる。

 

恵帝という権威は、バランスオブパワーに寄与していた。

恵帝という存在があってこそ、八王の乱は成り立っていた部分がある。

 

しかし、絶対神聖の恵帝が304年蕩陰の戦いで、

司馬穎の捕虜となってからは著しく皇帝の権威が低下した。

 

そして、

司馬熾、後の懐帝が恵帝を毒殺して皇帝となってからは、

皇帝自体の権威も完全失墜する。

 

皇帝を弑逆した者、懐帝が皇帝になるという物語は、

西晋自体の自己否定につながった。

 

これは、

賈充が魏皇帝曹髦を弑逆した時に類似している。

260年に起きた、この事件を境に魏の皇帝に、権力だけではなく、

権威も奪い去った。

皇帝はただの人になった。

 

西晋は、魏晋革命後、著しく失墜していた

皇帝の権威を懸命に高めてきた。だが、

この懐帝の暴挙により、また魏末の皇帝と同じになったのだ。

306年の懐帝による恵帝毒殺劇により、

天下が支えるべき皇帝はもうこの世にはいなくなった。

 

魏末に同様のことをした賈充を、

許した司馬氏がその後皇帝となったのだから、

因果応報なのかもしれない。

 

いずれにしても、魏末と同様に西晋の皇帝も、

正に死に体となった。

 

懐帝にそっぽを向いた貴族たちは、

名声のある司馬越に付く。

一天万乗の君、皇帝を捨て、現実的に司馬越を選ぶようになった。

 

懐帝は、

この状況を打破しようと苦慮するが、

結果として、司馬越派の洛陽逃亡を招く。

 

 

見捨てられた皇帝、懐帝

 

懐帝は見捨てられた。

司馬越を始めとした貴族士大夫たちは、

結局のところ、懐帝を皇帝と認めなかったのだ。

 

これほどわかりやすく見捨てられた皇帝はいないのではないか。

 

懐帝は洛陽に置き去りにされた。

 

政治も軍事も、典礼も何もできない。

 

洛陽にはもう数百戸の民しか残っていなかった。

 

匈奴漢の劉曜が悠々と洛陽を攻撃し、

あっさりと陥落する。

 

初めて皇帝のいる帝都が、異民族によって占拠された瞬間である。

 

捕虜となった懐帝に待っていたのは、

奴隷に等しい扱いを1年間散々されるという待遇であった。

 

異民族は漢民族へのコンプレックスから、

散々に漢民族の皇帝をなぶったのである。

 

散々虐め、弄り倒した後、

匈奴は懐帝司馬熾を処刑した。

 

 

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