歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬炎の生き方はディオニュソス的である

ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ! 」―まず知識・思想から

 参考図書は上記。

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P121「ニーチェは「人生は楽しむためにあるのだ。快楽を認めろと反撃した。」

苦労も憎しみも屈従もいらない、それが、ディオニュソス的なるもの、

およびアポロ的なるものだ。」

(引用元:ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ!」まずは知識・思想から 著者副島隆彦)

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伝説的な人物司馬炎。偉人中の偉人司馬炎。

 

司馬炎の生き方をディオニュソス的と考えると、

すっきりする。

皇帝は地上ただ一人の天子、特別な人間である。

100年分裂したこの世を統一した累代の皇帝の中でも、

「この世」を統一し平和をもたらした司馬炎が、

自分のことを史上まれな人間だと自認することは全く正しいことである。

 

あの、漢王朝を滅ぼした黄巾の乱に始まり、

曹操、劉備といった英雄譚を越え、晋の司馬炎の下に

全てが集約された。

 

この歴史の流れ、彼の生きた時代背景や

皇帝という伝説に則って考えると、

そうした考えに行きつくのである。

 

その特別な人物司馬炎が、

ディオニュソス的に世を過ごす、

これもまたおかしなことではない。

 

実は、我々市井の凡愚の尺度で、司馬炎のことを、

例えば浪費家だ、奢侈だ、などと判断するのは、

司馬炎の心象風景に沿えていないのではないかと私は考える。

 

おおざっぱにいうと、

ディオニュソス的、すなわち快楽主義である。

 

 

艶福家司馬炎

 

司馬炎は艶福家である。

 

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これだけ子供がいる。

 

子供達の母親たちが暗闘して殺しあったので

成人した子供達は男子11人に過ぎない。

 

それでも多い。

 

子沢山である。

 

それは270年代に集中する。

 

婚姻をストップして、

美女を集めた。

 

280年代にも呉の女を選別したが、

やはり270年代が一番のピークだ。

 

これを持って、

奢侈淫乱で身を滅ぼした、

西晋滅亡のきっかけを作ったと

散々言われる。

 

これは嘘である。

 

当時の帝王としてのあり方は、

徳を修めて身を慎むである。

 

そうすれば自ずから天下は安まる。

 

劉禅は正にそれを体現した皇帝てあった。

 

しかし、

武帝司馬炎は劉禅とは違う。

 

四海天下を統一した伝説的な聖天子である。

 

それは徳を修めた結果である。

 

そうしたら、

どうするのか。

 

私は人生を楽しみ切る、

それだと考える。

 

 

私はこの発想を

最上記の本から学んだ。

 

 

ディオニュソス的な生き方というものである。

一言で言えば快楽主義である。

 

 

中華史におけるディオニュソス的な生き方の体現者、司馬炎

 

司馬炎はこの体現者なのではないか。

 

晩年は後継者問題に悩まされ、

苦しむ武帝司馬炎だが、

壮年は正に我が世を謳歌していた。

 

贅沢競争をし、美食を楽しむ。

後宮を羊に乗って周り、

羊が止まった部屋の女と一夜を過ごす。

 

これは顰蹙もののエピソードとしてのよく語られるが、

これはゲームだ。

 

ハンカチ落とし、

黒ひげ危機一発、

ババ抜き、

 

その類と同じ。

 

武帝司馬炎は後宮の女を指名できるのだ。

当然だが。

なのにあえて羊に任せる。

 

これは新しいゲームなのである。

 

これこそディオニュソス的である。

 

 

この武帝司馬炎の行為に眉を顰めてしまった、

私を含めた大半の人たちは

反ディオニュソス的な生き方、考え方をしていると

認識できる。

 

結局我々は我々の尺度でしか、

武帝司馬炎という中華統一を成し遂げた

大人物を認識していなかったのだ。

 

そう考えると、

前漢武帝もやりたい放題だ。

 

皇后は卑賎のもの、

四方八方戦争をし、

やりたい放題だ。

 

しかし前漢武帝は確実に讃えられる帝王だ。

異民族を平らげ、

中華の基礎を作った。

 

それまでなんとなく王の延長線だったのが、

前漢武帝により皇帝の定義も

固まってきた。

 

 

その中にディオニュソス的、

快楽主義的な部分も含まれるのだ。

 

我々にとっては、

民を労わる清康熙帝のような帝王が、

歓迎したい帝王だ。

 

しかしそれはこちら側の事情であって、

あちらには関係ない。

 

帝王は、

中華の基礎を作った前漢武帝と同じような

事跡を歩むゲームをしていると言える。

 

このゲームをクリアすれば、

いや実はしなくてもいいのだが、

天命を受けた帝王は

ディオニュソス的に快楽を追求できる。

 

それが帝王である。

 

中華の真っ正直な一つの側面である。