歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

司馬睿は司馬越の副将格 瑯琊王氏の王導は司馬越の目付〜西晋東晋過渡期の311年ー318年〜

 

 
―――――――――――――――

●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保

司馬睿は、愍帝が匈奴漢に降伏して捕虜となった翌317年晋王となっている。
その翌318年には、
幷州から幽州鮮卑段部に逃亡していた劉琨、
涼州の張寔ら外藩勢力の支持もあり、
318年3月に司馬睿は皇帝に即位する。
 
愍帝司馬鄴が処刑されたことを確実に確認してからの対応であろう。
317年12月に匈奴漢により処刑されていた。
 
司馬睿は、元々司馬越勢力の副将格である。
当然司馬越にとって、信頼できるのは、兄弟であった。
司馬越、司馬騰、司馬略、司馬模の司馬越四兄弟は結束が固く、
司馬越の一つの強みであった。
 
307年の司馬越出鎮の際には、四兄弟で仲良く四方に散る。
常に行動を共にするのが、司馬越四兄弟であった。
 
そうした中、司馬睿は別家である。
司馬伷家の出身である司馬睿は、封国を琅琊に持ち、
司馬越の封国東海国の北隣であった。
 
司馬伷家は、司馬伷の分割相続に端を発して統一行動が取れない中、
司馬睿自身は司馬越と常に行動を共にしていた。

司馬睿の腹心で東晋建国の勲臣王導は元々司馬越の参軍(官職としての軍師)である。
 

●司馬越の後背地下邳を預かる司馬睿


司馬越と司馬睿の密接な関係を窺わせる。
 
例えば、司馬睿は司馬越の後方を預かるケースがあった。
司馬越が304年の蕩陰の戦いで司馬穎に敗れ、東方に逃亡、
その後305年に司馬越が没落した司馬穎に代わって権力を握った司馬顒に反抗する際には、
後方の下邳を預かる。
ここから北に上ると東海国、その北が琅琊国で当然司馬越と司馬睿の本拠地である。
そこを任されたのが司馬睿であった。
司馬越は蕭県に進軍して、司馬顒勢力と戦ったが、司馬睿が司馬顒サイドに鞍替えし、
後方から攻撃すれば、司馬越は一巻の終わりである。
八王の乱というのはこのような裏切り行為は当たり前のように行われていたので、
そのリスクはあった。しかし司馬越は四兄弟ではなく、司馬睿に後方を守らせた。
それほどの信頼が司馬睿にあったことになる。
 
 
また、司馬越が306年に八王の乱を勝ち切り、権力を握った翌307年、
司馬越は内乱状態にあった中華領域の反司馬越勢力を掃討しにかかる。
 
やはり主体は司馬越四兄弟であったが、
司馬睿は別の目的ともって動く。
 

●司馬越の意向により建業の確保という使命を帯びる司馬睿


それは建業を中心とした揚州の確保だった。
揚州はこれまでに独立の兆しを見せていたが、
その鎮圧と確保という命題が司馬睿に与えられた。
 
王導の進言により司馬睿が意図的に建業に行ったとされるが、
司馬越に常に従っていた司馬睿が勝手に行動するとはとても思えない。
 
司馬越自身の意向のもと、赴いたはずだ。
王導はここで司馬越の目付、監視役、中華風に言うと監軍として、司馬越により貸し出されている。
 
なぜなら、司馬睿の建業行きは、司馬越にとって危険を孕んでいる。
 
建業は長江の天嶮に寄る領域で、肥沃な地である。
三国呉の本拠地で、春秋戦国時代より気風も異なり、独立しやすいエリアでもある。
そこに司馬睿を遣わす、やはり独立されるリスクや後方から攻撃されるリスクが司馬越にはあるのである。
しかし司馬睿であれば、幽州の王浚のようにコントロールがつかなくなるリスクは少ないと判断した。
 
 
王導を目付にするのは当然の処置だが、
やはり司馬越の司馬睿に対する信頼は非常に厚いものだった。
 
 
司馬睿は常に司馬越勢力の副将格であり続けた。