歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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後の東晋元帝司馬睿よりも本来は皇位に近い存在、司馬保

 

 

 

●司馬保は、司馬越家の生き残り


司馬保は司馬越の四弟司馬模の子である。
司馬馗家の一人であり、
西晋最高権力者司馬越の血族である。
司馬越は兄弟を大切にしたので、
甥も同様だったであろう。

のちの東晋元帝司馬睿は、司馬越陣営の事実上の副将格であったが、
司馬越の血族となると話が違う。

西晋の皇帝なき今、最高権力者だった司馬越の血族が
皇位を継ぐべしという正統論が生まれるのも不思議ではない。

それがこの司馬保であった。

司馬保は最後の西晋皇帝愍帝の支援者でもあった。

司馬保は涼州の天水に駐屯していた。
313年4月に愍帝司馬鄴が長安にて皇帝に即位した時には、
支援をした。

元々長安および関中(渭水盆地)は父司馬模の管轄下だった。

307年に司馬越四兄弟が四方に散って、出鎮したとき、
司馬越の四弟で司馬保の父司馬模は長安に出鎮していた。
都督秦雍梁益諸軍事の立場であった。

このときに、司馬模は子の司馬保を長安から見て西に山を越えた先の
天水に駐屯させている。

司馬模は長安を慰撫したものの、
311年3月に兄司馬越が死去、
311年6月に洛陽が陥落、懐帝が捕虜、拉致されるという
永嘉の乱が起きる。

長安を中心とする関中(渭水盆地)は東に黄河を挟んで、
匈奴漢の并州と境を接している。

司馬模の時には、
長安から見て黄河対岸の蒲坂(現運城市の永済市)も確保していた。

その蒲坂の駐屯の将趙染が匈奴漢に裏切り、
それにより匈奴漢の攻撃を長安が受け、遂に司馬模は匈奴漢に降伏した。

一旦ここで長安は匈奴漢に奪われるも、
西晋残党により再度長安を奪取。

313年6月愍帝司馬鄴が皇帝に即位する。

こういった経緯なので、
司馬保は愍帝擁立の功労者でもあった。


そのため、
この愍帝政権においては、
司馬保は右丞相、大都督陝西諸軍事となる。

一方司馬睿は左丞相、大都督陝東諸軍事
に任じられる。

日本は「左」が上位だが、
中国は「右」が上位である。
司馬保が上位である。

諸軍事に関しては、
陝西、陝東としている。

陝西省と現在ではいうが、
これは陝という都市があり、その西という意味である。
陝は弘農のことで、現在は三門峡市のことである。
この東西で分割しているので、
司馬保は関中、涼州、蜀(益州)の管轄だが、
司馬睿は洛陽以東の中原、冀州、幽州、豫州、揚州が管轄となる。

軍権としては同格なのである。

つまり、愍帝政権は二頭政治である。
司馬睿は建業から長安までの間を、石勒に散々荒らされているので、
赴くことはできない。

長安の外の実力者司馬睿に配慮したということである。

 


●司馬保と司馬睿、対立。司馬睿の勝利

 

司馬睿は317年に晋王、318年に皇位につく。
一方、
司馬保にも、武帝の直系が絶えた今、
皇位を主張できる余地があるということである。

司馬保は愍帝の処刑を確認し、司馬睿が皇位に継いた後、
対抗して319年晋王となる。

本件については司馬保は叩かれる。

しかし、
司馬保からすれば司馬睿は同格、
いや丞相としては格が上である。
司馬越の血族である司馬保は、自分が司馬睿の下につくなどは、
許しがたいことであったであろう。

そもそもここで誰が皇位を継ぐのかというのは、
世祖武帝司馬炎家の子孫がいなくなってしまったからだ。


そうなれば、西晋司馬氏の宗族、具体的には司馬八達の
子孫は全て皇位を主張できる。

司馬保は最後に司馬炎の子孫司馬鄴(司馬炎の孫。司馬炎の子呉王司馬晏の子)
を皇位に擁立する功績がある。


十分経緯としては主張できる。

涼州武威の張寔(張軌の子)は司馬睿に即位を薦めつつ、
隣の司馬保に配慮して東晋というよりはここでは司馬睿が
決めた元号を使わず、
西晋の元号をそのまま使った。
司馬保に配慮したわけである。

しかしそれ以外は、司馬保は支持を得られず、
320年に臣下に裏切られ、殺された。
黄河を挟んで匈奴漢と接していたことも大きい。
その圧力は十分に受けていた。一方、江南の司馬睿は長江に守られ、
石勒を撃退できている。

司馬保は愚昧だ、決定力がない、百貫デブだとか散々言われるが、
まあここは軽く流そう。信頼できるのかどうかわからない。
敗者は勝者に何を言われても、死人に口なしである。

司馬模が西の備えとして、司馬保を天水に預けた、という部分は、
事実であり、司馬模の代理をできるぐらいの価値はあるということである。
また司馬鄴を長安に迎えることもできるということである。


ようやく320年に、西晋残党は建業の司馬睿を中心に
まとまることになった。


と思ったのもつかの間、
今度は瑯琊王氏との争いが始まる。