劉淵の父は
本当に単于の家系なのか。
劉淵の父、劉豹という人物にフォーカスして考えたい。
劉淵の父劉豹は、匈奴単于の系譜から判断すると、
甥の匈奴単于・呼廚泉の後を受けている形になっている。
上記画像引用元:晋陽秋伝 劉氏系図から引用させていただきました。
●劉豹はどういった経緯で単于直系となったのか。
しかし、呼廚泉は西晋成立の時の司馬炎即位式、
すなわち265年までは消息が知れているがその後が不明である。
子がいたのか、いつ死んだのかすらわからない。
そのうちに劉豹という人物が、
匈奴単于の後継者になっている。
正式に言うと、単于ではない。
単于は当然遊牧民匈奴の風習で、
単于として各部族が推戴しなくてはいけないのだ。
これは、のちのモンゴルのクリルタイとほぼ同じだ。
クリルタイで各部族の承認がないと、
ハーンになれない。チンギス・ハーン、オゴタイ・ハーンですらそうである。
それは、この匈奴の単于推戴文化に由来がある。
●●●●●匈奴の習俗については下記●●●●●●●●●●
なので、ここからわかるのは、
劉豹は単于家の血筋ではあるが、
単于ではないということになる。
各部族に推戴されていないからである。
本来匈奴単于というのは、血筋で主張できるものではない。
実力で勝ち取るものである。
それが結果として単于家が強くなったことで
血統由来の継承が増えただけである。
後漢末に殺された羌渠の後を継いだのは、
血統上の関係がない人物だ。
古の単于家の血統を継いでいるからといって
単于になれるわけではない。
中華とは異なるのである。
血統の由来があった方が有利ではあるが、
単于になるには、そこに実力が伴う。
血統と実力。それを考えれば考えるほど、
劉豹に関しての疑問が大きくなっていく。
なぜ匈奴単于の直系正統を劉豹が主張できるようになったのかが
全く不明なのである。
●劉豹が単于に連なるには、父との年齢差が非常に問題
劉豹が単于家の血筋ではあるが、
単于ではないだけで済めば話はそう難しくない。
ただ、古の単于の血を継いでいたが、実力がなかったので、
単于になれなかった。というわけだ。
しかしもうひとつ問題がある。
劉豹の血統にも、非常に疑わしい点があるのだ。
それは、
この劉豹が於夫羅の子として登場することである。
於夫羅は後漢末期の人物で、195年に亡くなっている。
於夫羅の子は劉豹、劉豹の生年は不明で、
劉淵は251年の生まれである。
となれば、劉豹は劉淵が生まれた時には、56歳以上である。
劉豹が於夫羅最晩年の子であれば、195年に生まれとなる。
劉淵が251年生まれなのだから、劉豹は56歳を下ることはない。
但し、劉豹は於夫羅が死去した後左賢王になっている。
ということは劉豹は195年当時成人として認められるような年齢であることが
想像できる。
左賢王というのは、当然匈奴の部族を率いるリーダーであり、
政治的な立場を持っているからだ。
となれば、最低でも15歳にはなっていないといけない。
つまり劉淵が生まれた当時、劉豹は71歳以上であることになる。
劉淵は251年に生まれ、劉豹は279年に死没した。
劉淵誕生の28年後に死んだことになる。
つまり71歳以上+28歳=劉豹は99歳以上の年齢で死没したということになる。
当時において、全く現実的でない年齢となってしまう。
ここに何か隠された真実がある。
なお、これに関しては、下記にも記されている。
「劉豹は「晋書」劉元海載記には南匈奴の於夫羅単于の子と
記されるが、於夫羅の活動した二世紀後半の時期と
270年代後半と考えられる劉豹の死の時期の差が大きいことなどから、
おそらく於夫羅の子ではなく、
南匈奴単于との直接の関係はなかったと思われる。」
(五胡十六国 三崎良章著 P57より引用。)
とある。言及はこれだけで、詳細は不明である。
また真実はこれだけではないので、次項以降で説明をしたい。