歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

④劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~ 匈奴の単于が劉氏となるその覚悟はどこから来るのか ~

 

 

●劉豹にある謎。何故劉氏なのか。何故死没年が279年なのか。

 

 

劉宣もそうだが、

私は匈奴という民族意識があるのであれば、

匈奴から見て異民族の漢人風の姓を名乗ることは相当な屈辱に見える。

 

私は武藤だが、中国式に

武(ウー)さんとなるのはそれは相当な覚悟だ。

 

つまり劉豹の時代に相当な覚悟を要するようなことが起きたのだと

考える。

 

 

なお劉豹の死没年は279年である。

タイミングも良すぎる。

呼廚泉死去の2年後であること、

また劉淵のわかりやすい事跡、呉討伐の前哨戦を行なったのが279年である。

とにかくタイミングが良すぎるのである。

 

 

 

●劉氏庇護と匈奴単于家系譜の改竄

 

 

①②③の前項までで、

於夫羅、呼廚泉関連の系譜は

改竄されていると言い切ることができる。

 

●●●●●

 

改竄されたのは何故か。

 

やはり呼廚泉の子供がわからず、後継者が誰かわからず、

一方突然単于が劉氏を名乗る、ということは

ここで何らかの政変が起きたと考えられる。

 

匈奴単于が劉氏を名乗る、もしくは名乗らせられるという、

相当な覚悟はどういった経緯で生じたのだろうか。

漢王朝の姓である、

劉氏を匈奴の部族長が名乗ることは

この西晋繁栄の時代に、西晋の承認なしには考えにくい。

 

西晋は劉氏を保護する方針をとっていたと見られる。

曹魏は、宗族に厳しかったが、西晋は徳治政治を目指し、

全体的に寛容なスタイルであった。

漢だけではなく、周や曹魏の末裔も保護している。

西晋は、特に

漢の宗族である劉氏を積極的に登用している。

賈謐二十四友の劉輿・劉琨兄弟を始め、

劉氏は数々出てくる。

東晋元帝司馬睿の晩年の側近劉隗も漢室の血を継ぐ。

 

前漢、後漢、蜀漢という漢の流れは、

皇帝には劉氏にしかなれないという考えが根強くあった。

 

曹魏はその前提を打破して禅譲を成し遂げたのだが、

その反発は強かった。

 

こうした反発に配慮したからか、

司馬昭が蜀漢を滅ぼしたことで、漢を継ぐという

立場で西晋を成立させていた。司馬昭が漢を継ぐのである。

 

 

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しかし、それでも、

漢正統論、劉氏のみ皇帝論というのは

根強くある。それに対抗してその漢の意思すら西晋司馬氏は継ぐ、

その立場の論拠のために劉氏を積極的に庇護したのではないかと

私は考える。

 

西晋司馬氏の王朝には、

漢の宗室劉氏がこれほどまでに

協力をしている、だから

司馬氏は劉氏を上回る存在なのだと。

そうしたプロパガンダの一種が劉氏庇護政策なのである。

 

西晋司馬氏の政治思想統制下にある劉氏という姓なのである。

 

そこに匈奴単于家を混ぜ合わせたのだから、

西晋の意向がそこにはある。

 

※非常にややこしい話なのだが、

この単于家が劉氏を名乗った由来は別項に譲る。

結論としては、西晋が匈奴単于家の人物に劉氏を名乗らせたのではない。

 

西晋司馬氏を支える前代の皇家、王家という扱いである。

西晋司馬氏にとって、漢も匈奴も前代の君主という意味では同じである。

同じ扱いをするのは当然といえば当然である。

 

では、何故西晋は匈奴単于を劉氏としたのか。

 

西晋にとって匈奴の扱いが変わったのは実は279年である。

征呉前哨戦に

劉淵を使っている。

 

今まで劉豹や呼廚泉が一軍を率いたことがないのに、

劉淵はここで積極的な戦力として動いているのだ。

関中では鮮卑の禿髪樹機能の乱が長引くなど、匈奴を活用する場は

多々あった。

 

 

●西晋にとって劉淵の存在意義

 

 

劉淵になって、急に西晋にとって都合よく動くようになった匈奴。

それはなぜなのだろうか。

 

それは劉淵の生い立ちにある。

 

劉淵は幼い頃から魏晋の人質として内地洛陽にいた。

 

劉淵が生まれた251年から数年経って、洛陽に人質として送られた。

匈奴本国の左賢王は劉淵の父劉豹である。

 

人質ではあったものの、

漢人としての教育を受けていた。

幼いころから帝都洛陽で漢化教育を受けていたことは大きかった。

 

だからこそ劉淵はのちに漢人の教養人たちと親交を結べる。

劉淵が漢化していたというエピソードは多々ある。

 

すなわち劉淵は西晋にとって非常に都合の良い人物であった。

劉淵は、匈奴出身ながら西晋の代理人、エージェントだったのである。

 

劉淵は、

西晋、漢人の恩恵を受けた匈奴の直系子孫。

(ここにも疑惑があるが、まずはこれを是として話を進める。)

劉淵は親西晋、親漢、親中華なのである。

匈奴の懐柔策にこれ以上の策はない。

 

これは現代でもよくある話で、

当該国の覇権国に留学させて、教育含めて散々恩恵に預からせる。

そうすると自国に戻っても、その留学先の覇権国に対立するような

ことはできない、というストーリーだ。

 

これは現在の日本とアメリカの関係と全く同じである。

 

日本を匈奴、アメリカを中華とすればそのまま同じ図式となる。

 

つまり、西晋が何らかの意向を持って、

ここで匈奴のトップを劉淵に移行させる、ということを

考え実行したということになる。

 

西晋の目的は匈奴を劉淵に統括させること。

姓も漢人風に変えさせ、劉氏とする。

 

このような大胆な異民族政策は、

西晋の承認なくしてできることではない。

 

劉淵が屠各種攣鞮部であることは間違いない。

わざわざ単于正統の家以外から候補を探す理由はない。

 

呼廚泉の血統が断絶したという理由もあったのかもしれないが、

それよりも呼廚泉が過去反乱を起こしたことや魏に協力的だったことが

大きいと私は考える。

 

劉淵に匈奴直系をすげ替える。

 

そう考えると、劉豹が劉淵の父だったのかも疑わしい。

そもそも年齢的に父になるのは難しい。

劉淵誕生時、劉豹は71歳以上である。

 

そうなると、劉豹を劉淵の父にしたかったと考えると見えてくる。

 

劉豹は漢の皇帝献帝を護衛しに長安まで行っているのだ。

無事長安脱出の手助けをしている。

 

漢だろうが西晋だろうが、それは関係なく、中華皇帝を助けに来た

中華になびいている異民族の長というのが決定的に大事である。

中華の威風になびいたということだ。

 

側室に蔡文姫もいる。

中華の教養を備えていそうなエピソードだ。

 

それに劉淵を繋ぎ合わせただけではないかと私は考える。