歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

⑤劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~劉淵の本当の父~

 

 

これまで、曹魏、西晋の匈奴政策、

それに紐づく匈奴単于家の不透明な経歴、年齢について述べてきた。

ここでは、劉淵の真実について説明したい。

 

 

●劉淵の本当の父

 

漢化させた劉淵を使うのはよいが、

しかしそれだけでは匈奴統制には条件が足りない。

 

匈奴本国で匈奴を実際に掌握する者が必要だ。

それは匈奴の事情に通じている者でなければならない。

 

劉淵は幼いころから洛陽にいたため、それができない。

 

曹操の時の去卑のような、中華の代理人になるような者が必要だ。

 

去卑は左賢王として、匈奴を掌握し、曹操の代理人としての役割を果たした。

 

劉淵にとっての、左賢王は、初め二年が父劉豹、

その後は大叔父劉宣である。

劉豹が父ではなく、劉宣が大叔父、すなわち於夫羅の弟であること

疑惑があるのは既に述べた通りだ。

 

系譜で繋ぎ合わせただけで、

そもそも劉豹は劉淵の父ではない。

 

であれば、父は誰なのか。

 

劉淵の父こそが劉宣だと私は考える。

劉宣が劉淵の父であれば、西晋の思惑は完成する。

 

何故於夫羅の弟とされる劉宣も、劉氏を名乗っているかの答えにもなる。

 

多分に劉宣は傍流だったのだろう。

屠各種攣鞮部ではあるが、傍流で単于にすげ替えにくい。

しかし、劉宣は親中華、親魏、親西晋だった。

だが漢化しているわけではない。

 

西晋もしくは曹魏が

劉宣にアクセスし、その息子劉淵を魏だったり西晋だったりのエージェントに

することにした。しかしただ単に、劉宣の子というだけでは、

匈奴を総括するには弱いバックグラウンドだ。

ということで、劉淵の父は劉宣ではなく、

匈奴単于家の者としたいところだ。

それは、中華にゆかりがある、できれば中華の威風を受けた者であればよりふさわしい。

 

中華の威風を受けた歴史上の人物、それが劉豹に当たる。

中華皇帝後漢献帝を助けたというエピソードは劉豹が

うってつけの人物であることを示唆する。

 

 

●曹操が作った単于=人質、左賢王=エージェントモデルからの発展「単于自身が漢化する」 

 

劉豹の父は単于とする。

短命で死去した於夫羅を父にしておく。

於夫羅は可哀想な単于で、直系だったのに短命であり、

弟呼廚泉に単于位を奪られた。

 

塞外の遊牧国家において

このようなことは実力主義、弱肉強食の世界では当たり前だ。

だが、

中華の考え方だと於夫羅もそして呼廚泉も

本来単于を正統に継ぐべきなのに、

単于位を奪われた形となる。

そのままではいずれにしても、

西晋を悠久の王朝としたい西晋にとっては非常に都合が悪いのだ。

中華王朝は実力主義を認めてはならない。

実力主義はイコール革命を匂わせる。

現中華王朝は常に天命主義である必要があるのだ。

 

このような禅譲を匂わせるようなことは

極力排除しなくてはならない。

 

そこで

於夫羅、呼廚泉の系譜に劉豹を系譜上、くっつけた。

これにより、

劉淵という人物の正統性を強化する。この正統性強化の仕方、

考え方自体が非常に中華的である。

 

劉淵は洛陽で教育、思想教化する。

呼廚泉の後を継がせることを想定する。

 

匈奴本国は劉宣に任せる。

劉宣は左賢王として匈奴本国を統治していた。

ここは劉豹の経歴と同じである。

劉宣は人質として子の劉淵を西晋に取られているので、

裏切れない、

というセオリーとなる。

 

構図も全く同じだ。

 

・曹操の匈奴統治策 人質:呼廚泉ー左賢王:去卑

・西晋武帝の匈奴策 人質:劉淵ー左賢王:劉豹、その後すぐ劉宣

 

 

呼廚泉の年齢も怪しく、

私はこの277年に西晋に入朝、すなわち挨拶に来たこの

「呼廚泉」は呼廚泉ではなく、呼廚泉の子供とかだったのではないかと考える。

 

一般的に考えて、この呼廚泉の息子とか、が西晋の言うことを聞かなかったのだろう。

 

この時期、西晋は異民族対策を積極的に行っていた。

当時西晋は関中において、禿髪樹機能の乱に苦しんでいた。

また、衛瓘は勢力を伸ばしつつあった鮮卑の大人(部族長)の子を謀殺したり、

烏丸に離間策を行って鮮卑から離反させている。

 

匈奴に関しての工作は、

西晋は、呼廚泉の息子とか、を「何らかの形」で排除し、

劉淵に後を継がせたというわけだ。 

 

そうすれば、匈奴はまるっと手に入る。

劉淵は西晋によって親西晋として育てられたからだ。

 

事実、

劉淵が確実に後を継いだ279年から

304年に西晋から離脱するまで、

匈奴は西晋の戦力として忠実に動いている。

 

劉淵を相当に中華風に思想教化しなければ、

劉氏を名乗ったり、

自身の王朝を漢として漢皇帝を祀ったりなどできるものではない。

 

劉淵は非常に特殊な存在だ。

匈奴の血筋でありながら、中身は漢化されているのだ。

 

それは劉淵自身が特別な存在と感じるほどのものであろう。

漢を継承し、匈奴との融合ができるのは自分しかないと考えてもおかしくはない。

 

 

●匈奴漢が中華風王朝であるのは劉淵存命まで。

 

 

劉淵は漢化され、その嫡子で後継者の劉和も当然洛陽に勾留され、

漢化された。

 

劉淵死後、劉和が継ぐも、即位後たった一か月で

劉聡に反乱され、殺されるというのも理解ができる。

 

劉聡は庶子であり、

匈奴の文化を継いでいる。

 

実力主義である。

 

漢化された劉和を打倒するなどわけもなかった。

 

そうして、漢の名前と体裁が残ったまま、

劉聡という匈奴の王者が中華を席巻する。

 

異民族国家が実態にも関わらず、

劉淵が残した形があるので、実態が把握しにくい状態となる。

 

漢の皮を被った異民族国家に劉聡は変貌させる。