歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉淵独立の真実①=親西晋の劉淵は自分から率先して漢として独立したのではない。

251年生まれの劉淵は、
304年、すなわち劉淵53歳の時に、
ずっと中華の中心中原にいたのを、
鄙びた田舎の離石に移動して自立する。
最晩年のこの大きな変動は
個人の人生として幸せだろうか。
そこまでして、部族を引き連れなければいけないものなのか。

 

 

劉淵、二十代、三十代は、
270年代、280年代に当たり、
西晋絶頂期だ。

263年に司馬昭が蜀漢を滅ぼし、
265年に司馬炎により西晋が成立する。

対呉戦線においては、局地的には押される局面もありながら、
大局的には圧倒的な有利。
270年代はじりじりと呉を追い詰め、
280年に遂に呉を滅ぼして、中華統一。
184年に黄巾の乱が起きて、
後漢王朝がチャイナプロパー領域を統治する能力を失ってから、
実に約100年ぶりの快挙であった。

この後、280年代は、
太康文学と呼ばれる、一つの文学の黄金時代も顕現し、
この20年間は中華の歴史にとって一つの絶頂期でもあった。

劉淵は20代、30代の青春時代をこの中華の輝かしい
時期に送っている。

このような経歴を持つ劉淵は、
それでも匈奴としての自立を根底に持ち続けたのだろうか。

答えはNOである。

 

++劉宣、劉淵を叱咤激励し独立させるまでのその経緯++

 

気弱な劉淵を励まし独立させるのが劉宣という人物だ。

劉宣は、正しいとされている系譜上は、
劉淵の大叔父である。

劉淵の父劉豹の叔父である。
劉淵の祖父於夫羅の兄弟である。

呼廚泉の兄弟でもある。

多分に於夫羅、呼廚泉の弟であると思われるが、
詳細不明なので兄弟としておく。

正史上は、
劉豹が279年に死去、
同年の呉討伐前哨戦に劉淵が使われたのを皮切りに、
304年7月の蕩陰の戦いまで、
匈奴劉淵軍は西晋に協力し続ける。
劉宣は劉豹死後の左賢王である。
左賢王として劉淵の西晋協力に従っていた。

※蕩陰の戦い・・・司馬越が西晋恵帝を奉じて、鄴の司馬穎を攻撃した戦い。
石超が鄴の南方、蕩陰にて恵帝、司馬越軍を奇襲。
恵帝を捕虜とした。

 

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八王の乱の主役の一人、司馬穎はこの304年の7月の蕩陰の戦いまで順調だった。
恵帝・司馬越軍を破った後没落する。
蕩陰の戦いの翌月、
今度は、背後から攻撃を受ける。
司馬越の弟で并州刺史の司馬騰、
太原王氏で西晋建国元勲、建国当初の録尚書事の王沈の庶子で幽州刺史の
王浚の連合軍である。

彼らはそれぞれ、
司馬騰が鮮卑拓跋部、
王浚が鮮卑段部と烏丸という友好関係にある異民族を引き連れていた。

 

 

司馬穎軍側としては、以下三点から非常に不利な状況にあった。

 

++司馬騰・王浚軍の攻撃を受ける司馬穎の不利な状況++

 

①司馬穎軍の状況:

 

司馬穎にとっては蕩陰の戦いに続く連戦であり、当然兵士に疲れは残っている。

②司馬穎軍の強み以上の強みを持つ、司馬騰・王浚軍

司馬穎の軍事的強みの一つは、匈奴劉淵の率いる騎兵だが、
司馬騰、王浚がこれだけ異民族を率いてくると、
数で負けてしまう。(実際は、この戦いの直前に、劉淵は
司馬穎軍から離脱する。司馬穎軍の劣勢は明らかだった。)

 

③司馬穎軍が劣勢を覆した蕩陰の戦いと同じ、
石超・劉淵の奇襲戦術が使えない;

 

 

司馬穎にとって、
蕩陰の戦いの勝因は
石超の好判断と匈奴軍の有効活用、恵帝・司馬越軍の油断にあった。

 

一瞬で恵帝・司馬越軍の敗退で終わってしまう、
この蕩陰の戦い。

詳細は伝わっていないが、
恵帝・司馬越軍は最低でも10万人以上の兵数は持っていた。
それに対して、司馬穎軍の石超は5万人で蕩陰で攻めている。

にも関わらず、優勢であるはずの、
恵帝・司馬越軍は石超の攻撃を受け、
いとも簡単に恵帝が捕虜になってしまった。

とすると、この状況から想定できるのは、
石超の奇襲しかない。劣勢を覆すのであれば、会戦をせず、
奇襲をするほかない。
恵帝・司馬越軍はそれを読めなかったということだと私は考える。

恵帝・司馬越軍からすれば、
兵数の差から鄴城における攻城戦になると踏んでいたか、
きちんと偵察兵は出していたが、それ以上の素早い行動を石超がしたか、
という状況にあったと私は想定する。

司馬越は八王の乱の勝利者だが、
その後自分自身で司馬越反乱勢力の討伐に出ている。
当時50歳を優に超えていた司馬越は、年齢やこの貴種という出自に関わらず、
かなり活動的である。
汲桑・石勒の乱を一度は鎮圧するほどなので、決して
戦下手なわけでもない。

となると、石超が一枚上手だったということになる。

石超が恵帝・司馬越軍の想定を上回るスピードで、
移動し奇襲を仕掛けた。この機動戦の主役は、
やはり匈奴劉淵だ。

となれば、
今度の司馬騰、王浚、鮮卑拓跋部、鮮卑段部、烏丸連合軍の
攻撃への迎撃は騎兵数(匈奴軍がメイン)が司馬穎サイドの方が今度は劣るので、
甚だ難しいことになる。

以上三つの状況から司馬穎軍の劣勢は明白であった。

 

 

++劉淵の離脱、そのまごころ+++

 

 

そこで、匈奴劉淵は司馬穎に進言、
匈奴本国に帰国して、匈奴の騎兵を引き連れてくるので、
一旦軍勢から離脱させて欲しいと言う話だ。

 

司馬穎が逡巡するが、
結局劉淵の申し出を許可し、匈奴に帰国させる。

 

これが、曹操以来曹魏から西晋が100年近く握っていた、
匈奴という軍事利権を失った瞬間だった。

 

劉淵は并州・離石にて漢を建国、
自立した。

司馬穎は劉淵に騙され、
司馬騰・王浚軍にも敗退、
皇太弟を廃され没落。
一方、
劉淵は司馬穎を騙しおおせたおかげで
匈奴本国に帰国し独立を果たした。

何とも有名で、劉淵の視点で見ると
何とも清々しい、英雄譚だが、
私はこれは真実ではないと考える。

 

劉淵は、真剣に匈奴本国から援軍を連れて来ようと、
司馬穎に進言したと主張する。

 

後から見返せば、匈奴にとって絶好のチャンスだったが、

劉淵にその動機はない。劉淵は中華思想にどっぷり浸かっている。
司馬穎も、
自軍の強み・匈奴の軍勢を上回る、司馬騰・王浚の鮮卑・烏丸軍を
考えると、劉淵に匈奴軍を増派するよう動いてもらう他なかった。

 

司馬穎は蕩陰の戦いの勝利に関して、
匈奴軍騎兵の奇襲こそ成功要因とわかっていた。
歩兵では話にならないのだ。

司馬穎のここでの選択肢は、三つ。
・劣勢と分かりながら、司馬騰・王浚の鮮卑・烏丸軍と戦う。
玉砕の可能性が高い。
・鄴に籠城。
元々蕩陰の戦い自体が司馬穎にとって急で、
兵糧の蓄えがない。3ヶ月の籠城がいいところであろう。
・劉淵に援軍を連れて来てもらう。

 

八王の乱の中心人物司馬穎だが、
政治経験は浅く、度胸はない。
玉砕するほどの勇気はない。
籠城に関しては、援軍が期待できることが鉄則だが、
そこまでの戦略眼もない。

司馬穎は、
単純に考えられる対策、匈奴軍騎兵の増派を選んだのである。