歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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①劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=劉豹は於夫羅の子ではなく、劉宣は羌渠の子ではない。=

 

劉淵は劉豹の子ではない。

また匈奴本国で、左賢王として匈奴独立を推進した

大叔父劉宣は、於夫羅・呼廚泉の兄弟でもない。これは前項までの「劉淵出自の謎」で説明してきた。

 

 

 

これは、「五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書) 三崎良章著 東方書店; 新訂版 (2012/11)」P57にも言及がある。

 

下記引用文:

「劉豹は「晋書」劉元海戴記には南匈奴の於夫羅単于の子と記されるが、

於夫羅の活動した二世紀後半の時期と二七〇年代後半と考えられる劉豹の死の時期の

差が大きいことなどから、おそらく於夫羅の子ではなく、南匈奴単于との直接の関係はなかったと

思われる。ただ匈奴世界における正統性を主張するため於夫羅単于の子であることを標榜し、

また漢族世界に影響を持つために前漢・後漢の劉氏を名乗ったと考えられる」

引用ここまで。

 

 

 

劉淵の父劉豹が於夫羅単于の子ではないことは私も同意である。 

そして、

劉淵は劉宣の子である。それをこれから解き明かしたい。

 

しかし、上記引用文の中の、単于家と血のつながりがない事には反論したい。

またただ、漢族世界に影響を持つために劉氏を名乗ったという説も私は

もう少し複雑な事情があると主張する。後述する。

 

 

・まず劉淵は劉豹の子ではない。

 

 

詳細は、下記を読んでいただきたいが、

 

www.rekishinoshinzui.com

 

劉豹は後漢末期の人物だ。

献帝が195年の2月に長安から逃げ出す時に、

北方から献帝を助けにきたのが、

この劉豹である。

 

劉豹は、

279年に死去するのだが、

照らし合わせていくと、没年が100歳以上となってしまい、

非現実的である。

 

劉淵は劉豹の子として251年に生まれたことになっている。

しかし、劉淵誕生時には、劉豹は少なくとも72歳以上である。

司馬懿は60代後半で末子の司馬倫が生まれているので、

全く可能性がないわけではないが、疑わしいことは間違いがない。

 

劉豹と劉淵の親子関係に関して、疑惑があることだけご理解いただきたい。

 

・劉宣は於夫羅・呼廚泉の兄弟ではない。すなわち羌渠の子ではない。

 

一方で、

劉淵の大叔父、劉宣にも疑わしい話がある。

劉宣は304年の匈奴漢の独立を事実上推進、事実上の建国者と言われるほどである。

4年後の308年に死去するのだが、

このように晩年精力的に政治活動を行なっているのが

この劉宣である。

 

 

劉宣は、羌渠の子、於夫羅・呼廚泉の子とされている。

 

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引用元:晋陽秋伝 劉氏系図から引用させていただきました。

晋陽秋伝: 劉氏系図

 

劉宣の生年は不明である。

 

系図上父とされている、羌渠は188年に匈奴内部に殺されているので、

それ以前の子ということになる。

いや、戦国時代の常陸佐竹氏の佐竹義重は自身が16125月に死んだのに、

死後の161210月に佐竹義直という

息子が生まれるという話もあるので、

劉宣は同年に生まれたということにしよう。

 

系図に従った親子関係から生没年をおおざっぱに推定すると、

劉宣が188年以前にに生まれ、308年に死んだ、となる。

劉宣の没年齢は120歳以上になる。

 

南光坊天海や仏図澄のような僧侶ならあるのかもしれないが、

さすがにこれは不自然である。

 

劉宣の308年死没はほぼ確実と言えるので、となれば、

生年が疑わしいとなる。となれば、

劉宣を羌渠の子、於夫羅・呼廚泉の兄弟ではないと、

考えることができる。

 

 

ここで同年代の匈奴単于家に関して、

系譜上の疑義がある人物が劉豹と劉宣の二人いるということがわかる。

 

<つづく>

 

参考図書: 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

 

 

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)