劉豹と劉宣両名の系図を疑ってかかる。
まずは劉豹から。
●劉豹の事績
劉豹の話に戻るが、
事績は前半と後半の二つに分かれる。
前半部分は後漢末期の話である。
劉豹は後漢献帝が李傕らの反乱から逃れる時に助けに来た。
その際に、蔡邕の娘蔡文姫の本人の了解のもと、匈奴本国に連れて帰り、
側室とした。すなわち褒賞として掠奪したことになるが、
匈奴に取っては当然のことである。悪気とかは特にない。
子も二人もうけている。
のちに曹操が華北を統一した際、
蔡邕の娘が匈奴に拉致されていることを知り、
金銀財宝で買い戻したという話だ。
後半部分は魏末晋初の話である。
劉豹は魏の251年に生まれた子の劉淵を人質に出し、
西晋の279年に死去したという話だ。
前半と後半の話の間には40年の隔たりがある。
正史上は劉豹は100歳以上生きていることになる。
当時の貴族層は50歳程度が平均年齢であったことから、
これは劉豹が二人いると考えた方が納得できる。
劉豹Aが献帝を助けて、蔡文姫を娶った。
劉豹Bが劉淵の父で、劉淵を人質として出していた。
両者とも寿命が50歳から60歳ぐらいの人物だった。
そう考えれば辻褄があう。
名前まで世襲する歌舞伎の家では、同じ名前のものが累代多々いても
おかしくないわけで、劉豹が二人いるという発想自体は
目新しいものではない。
●何故劉豹は二人いて、劉淵は劉豹の子であったのか。
劉豹に作為がある。それはなぜなのか。
劉豹は漢や魏、晋といった中華王朝にとって、
とても好都合な人物だったということが挙げられる。
漢やら魏やら晋やらと色々と王朝があり、別の国のように感じるが、
実はこれらは一つの国、というよりただ皇帝が持ち得る世界という意味では一つの
単位に過ぎない。
皇帝という存在に匈奴がなびいたということが重要である。
中華王朝に従属した異民族というのは、前漢武帝以来
特別な意味を持つ。
正統な天子、皇帝としての資格の一つが、
異民族従属なのである。
この劉豹という人物は当時において、
中華王朝に従順な異民族の代表的人物だった。
西晋が匈奴を統治するには、
本来ならばこの劉豹の血を継ぐものが良い。
そこで劉豹の血を継ぐと思われる劉淵に白羽の矢が立ったわけである。
劉淵は西晋によって、完全漢化され、
匈奴の完全従属に成功した。
しかし、正史上親子とされる劉豹と劉淵の間には、
実際の親子関係はない。
本来は劉豹と劉淵の間には、一人の人物がいるのに、
正史からは抹消されたことになる。
劉豹Aと劉豹Bの二名が合わさって、劉豹と正史上は呼んでいることになる。
●劉豹Bが抹消されたのは何故か。
それは、この劉淵までに連なる系譜が匈奴単于家を継ぐには、
本来は無理があったということだ。
漢人の正統性からすれば無理があるということである。
そもそも匈奴など異民族は実力主義なので、無理があるもないもないのだが。
いずれにせよ、劉淵が匈奴単于を継ぐべく、
その権威づけとして劉豹を使ったことになる。
その劉豹は於夫羅の子であると、100歳以上生きたことになってしまうので、
於夫羅の子ではない。つまり単于家直系ではないということになる。
劉豹ー劉淵は単于家を乗っ取ったことになる。
乗っ取るために、劉豹を系譜上長生きさせ、
劉淵の父としたということである。この不都合な事実を
隠すため劉豹Bの存在は伏せられたわけである。
<つづく>
参考図書: