歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉淵の父とされる「劉豹」、その正体=④劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

 

●用済みになった呼廚泉

 

さて劉豹は於夫羅の子ではない。

なぜ劉豹は於夫羅の子にされたのか。

それは、於夫羅が単于として中華内地に留め置かれ、

漢に屈服した人物だからだ。

195年に早死にしているので、

悲劇の単于でもある。

呼廚泉はその後長らく単于であり続けるのは、

兄於夫羅が早死にしたからだ。

 

於夫羅の子として劉豹を入れるのに、結論として、

系譜をいじっているのだが、それは於夫羅の実態がわかりにくいからだ。

呼廚泉は、曹操が華北を掌握した後も生き、

西晋成立時まで生きていたとされている。

呼廚泉の目撃者はたくさんいるのだ。

だから呼廚泉の系譜はいじりにくい。

 

ということで於夫羅の方をいじることになる。

  

 

ここで於夫羅の子として、

劉豹が出てくるのだが、

この手の込んだ系譜改竄を考えると、

通常の手段で改竄を行ったとは考えにくい。

 

呼廚泉が何らかの形で用済みになったのだ。劉豹系に単于位を移すためには、当然単于呼廚泉の許可が必要になる。その形跡がない。

 

呼廚泉は子の存在が不明だ。

子がいないか、誅殺されたか、

いずれにせよ正史には存在しないということになる。が、これもそのまま信じるには少々疑問が残る。

 

劉豹は正史では左賢王として登場する。

呼廚泉が中華内地で軟禁状態に置かれている時には、

劉豹が左賢王として、於夫羅・呼廚泉の叔父で父羌渠の弟、去卑が

右賢王として匈奴本国を統治したとされる。

 

この体制にしたのは曹操だが、これ以後。

事実上の左賢王が匈奴を統治し、権限が著しく

強まったとある。

 

当初は、匈奴単于家の呼廚泉が人質して軟禁されていた意味もあったのだろうが、

年数が経つに連れ、その効果はなくなっていた。

中華や日本の歴史のように考えてはならない。匈奴を始めとした異民族には、

血縁だから配慮するという考えは元来ないのである。実力主義である。

中華の概念として、単于を軟禁しているから、匈奴が言うことを聞くという発想はない。

 

 

呼廚泉を中華内地に軟禁しても効果が無くなってきた。

そこで、事実上の匈奴王、左賢王に、

交渉相手を西晋が変更した、

これが真実だ。

 

その左賢王は劉宣であり、

劉淵を西晋に人質に取られた。

 

権威づけのため、将来の単于候補者劉淵の系譜を

劉豹という漢の功労者と、

悲劇の単于於夫羅に繋ぎ合わせた、


 

●劉豹は羌渠の「兄弟」、これが正解である。

 

となれば劉豹は於夫羅の子でなく、どの系統なのか。

結論、羌渠の兄弟、多分弟である。

 

理由は下記だ。

 

・羌渠が親漢であり、匈奴の他部族から殺害されたということは、

一族自体は親漢であったことがわかる。

劉豹は後漢献帝を助けに行っていることからもわかるように、

親漢であり共通する。

 

・後漢献帝の支援に、劉豹は北方のオルドス方面、すなわち匈奴本国から

来ている。

 

劉豹は匈奴本国にいた親漢勢力であることがわかる。

羌渠に連なる人物であるということだ。

 

・羌渠殺害後、別部族が単于に付くが、

一年後なくなる。内紛が起き、その結果195年時点で

羌渠の弟の去卑が右賢王になっている。

 

この年は於夫羅が死んで、弟の呼廚泉が事実上の単于位を継いだ年だ。

それに関連して去卑の右賢王の話が取り上げられる。

だが、それよりも大事なのは、

献帝が曹操に迎え入れられた、

その曹操は於夫羅たちを軟禁していた、

そして、献帝が洛陽経由で許昌という安住の地を得たのは、

劉豹の功績が大きいということだ。

 

曹操はまだ華北の覇者ではなかったが、

献帝を手に入れていた。

後漢を代弁できる立場となっていた。

 

於夫羅は父羌渠を188年に内紛で殺され、

後漢に泣きついたが、放置された。

しかし、7年かけてようやく後漢の後援を得ることに成功したのだ。

そのタイミングの前後に於夫羅は死去していた。

 

ここで、曹操が任じる匈奴本国の統括者、左賢王は、

劉豹である。

 

劉豹が羌渠に連なる者であることはこれで確実である。

全く関係がなければ、いくら言っても匈奴のNO.2左賢王になれない。

於夫羅の子でないことも確実だ。於夫羅は華北で転々としていただけである。

劉豹は献帝を助けて、曹操の下に逃がしてあげた。

曹操がこのタイミングで、献帝を確保したことが、曹操の覇業に大きく寄与したのはよく知られている。

これを支援した劉豹が曹操に非常に感謝されたことは当然と言える。

 

 

そもそも於夫羅の子であるとするのなら若過ぎて、匈奴本国をまとめきれない。

これは匈奴の軍事力を欲する曹操の希望にはそわない。また

本当に子であるなら、漢人の曹操は内地に留め置くという判断をするだろう。

 

そして、左賢王は右賢王より上位なので、

去卑よりも、上位者が劉豹となる。

 

 

となれば、劉豹は羌渠の弟で、去卑の兄でしか、あり得ない。

 

この系統が、呼廚泉が中華内地に軟禁されている間に、

左賢王として匈奴本国を掌握し、最終的には

事実上の匈奴単于となったということである。

 

これは本来匈奴にとっては当然の所業である。

匈奴は弱肉強食で、弟が兄の家を乗っ取っても何ら恥じることも、

後ろ指を刺されることもない。

 

 

しかし、

中華王朝側が気にしたのではないか。

単于という匈奴の皇帝とも言える存在を、

その下位の王である左賢王が単于を乗っ取るのは、

革命を感じさせる。

 

そのため、劉豹家が事実上の単于を継ぐことを隠すために、

系譜が杜撰に改竄されたということだ。

 

<つづく>

 

参考図書: 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

 

 

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

 
中国史〈2〉―三国~唐 (世界歴史大系)

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