歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

劉淵自立の背景=劉淵の天命論=それに対する司馬越の当て付けが劉琨

 

●天から選ばれた子という天子伝説に則って、劉淵は自立した。

 

確かに1700年後の我々にも認識される劉淵は確実に選ばれた人物なのだが、
劉淵はどう自分を解釈したか。

劉淵は、自分自身を
天命を受けたから皇帝になったと理解した。
漠北の異民族の、
部族の推挙ではない、実力主義ではないのである。
匈奴流の政権の取り方ではないのである。

漢の、復興と理解した。
単于の子孫としてではなく、
漢の皇帝の末裔として皇帝になった。

 

●祀る皇帝は下記の三祖五宗


【三祖】
太祖高皇帝劉邦
世祖光武帝劉秀
烈祖昭烈帝劉備
【五宗】
太宗文帝劉恒
世宗武帝劉徹
中宗宣帝劉詢
顕宗明帝劉荘
粛宗章帝劉炟

 

これは中華の流儀である。

劉淵は積極的に西晋を攻めなかった。
結論として劉淵の自立は、
匈奴としての自立のためでしかなかったのである。
司馬騰の背後をいくらでも突けたのに、
突く事はなかった。

攻め始めたのは、307年に
劉琨が赴任してから。

 

劉琨は漢の末裔である。
本物の漢室劉氏だ。
匈奴漢に対してこっちが本物だと言っているわけだ。
当時漢の末裔では、
最も著名で名声があったのが、
劉よ、劉琨兄弟である。
それで司馬越が政権を掌握したのち司馬騰の後任に当てた。
司馬騰を鄴に赴任させるためである。
劉輿は司馬越の参謀、弟の劉琨を并州刺史として赴任させた。
匈奴漢の劉淵は偽物だ、こっちが本物だ、という当て付けである。

それでようやく匈奴漢劉淵は攻撃をし始めた。
匈奴漢という国の根本に関わることである。
偽物の劉氏と言われては天命の根拠に関わるからである。

それまで
匈奴漢劉淵には
西晋を攻める考えがなかった。

それはなぜなのか。

それは劉淵の自立した理由にある。

 

劉淵の自立理由は二点だ。


①匈奴本国の掌握の為である。


黄巾の乱の時の羌渠のように内部から暗殺されない為である。


②匈奴の不満を抑える為である。


西晋にこのまま付いていては食っていけない。
匈奴は劉宣・劉淵父子に率いられているので、
目立った掠奪を行なっていない。
西晋の内戦である八王の乱では掠奪をしないようにしていた。
司馬騰や王浚などが鮮卑らを引き込んでから、掠奪が始まった。
しかし、304年蕩陰の戦いののちに劉淵が西晋から離脱するまで、
目立った掠奪はない。

すなわち、劉淵率いる匈奴は異民族の流儀で掠奪目的で

戦いに参加していたわけではなく、
中華の流儀で参加していたのである。

つまり、統治機構上の役職に劉淵は付いていて、
劉淵の上位者の例えば、成都王司馬穎の指示だから、
麾下の匈奴族は司馬穎のために戦うのだという事だ。

それは中華の流儀である。
中華の秩序である。

異民族の流儀として加勢しているのであれば、
必ず勝ったものは掠奪という褒美が与えられるのだ。

それを与えずにここまで戦ってきた、
というのは劉淵を始め匈奴さえも、かなり漢化している。

しかし、八王の乱が続き、厭戦ムードが漂う中、
匈奴内部としては中華、西晋王朝に見切りを付けたい、
劉淵のやり方では食っていけないという話になった。

副島隆彦氏は、
戦争というのは、3年続けばいい方で、
熱狂的に戦争を支持した民衆の情熱も3年程度で冷めてくる。
そうして、和平工作が始まり、
大体5年以内には終わるとしている。

一方、八王の乱は、上記の時点で既に4年続いており、
ちょうど恵帝も捕らわれ、西晋は破滅的な状況だった。

漢人、漢民族でもなんでもない、匈奴が離脱しようと考えるのは
当然である。
そして、劉淵のやり方は間違っていたと主張するのも
当然である。

この匈奴の空気感を劉淵の父で左賢王劉宣は察知し、
独立という道を子の劉淵に薦めたのだ。

劉淵は渋々自立したのである。

 

●とはいえ304年に自立した劉淵は3年大して動かない。


年は短いようで長い。
王朝の体裁を整えていたという反論もあるだろう。
司馬騰と一進一退の戦いをしていたとも見えるだろう。
 
しかし、時は戦乱の世である。
304年7月に蕩陰の戦いで、
司馬越が司馬穎に負けた。恵帝は司馬穎に捕らわれた。
しかし、同年8月に司馬穎を司馬越の弟司馬騰と王浚が攻撃して勝利。
その後、司馬越勢力と司馬顒勢力の内戦となる。

長安に本拠を置く司馬顒と、
徐州周辺に本拠を置く司馬越との東西対立。

周辺地域においては、
蜀は氐族のひとつ巴氐が独立。
旧呉の江南では、顧栄を中心に自立の動きを見せる。

306年8月に司馬越は
太傅・録尚書事につき、西晋の最高権力者につき、
八王の乱の勝利者となる。

それまで少なくとも約2年間、
勢力を拡大することも、
どちらかの陣営に付いて、内戦に参加することもできた。
その際は旧司馬穎の勢力を継いでいる司馬顒に付くのが、
順当であろう。

この時点で鮮卑拓跋部と段部を支援を受けている
司馬越陣営に対抗して、
司馬顒が匈奴を味方に引き入れたいと思うのが、
至極当然のことである。

しかし、匈奴、劉淵はそれをしなかった。

自立して勢力を伸ばし、確実な地歩を歩む、
最大の好機を劉淵は見逃しているのである。

匈奴漢としての劉淵の自立は、
勢力を伸ばすためではなかった。

ただの自衛である。
司馬騰との一進一退の戦いも、まずは勢力圏の確実確保にしか見えない。
 
本来は西晋に所属し続けたかったというのが
本音だ。

 

●匈奴だけではなく、この当時の異民族は中華を統治しようとなどと考えていなかった。

 

それほどまでに、
中華思想という伝説は流布、認知されていた。

鮮卑も攻めない。拓跋部も段部もである。
ただ掠奪のためだけ戦う。
統治などとんでもない。
異民族は漢民族とは完全に別物と考えていた。

後年、チンギスハーンが中華の地を手に入れた時に、
全て牧草地にしてしまおうと考えた。
それを耶律楚材が諌めて、農耕地の価値を伝えたという話を思い出して欲しい。

13世紀の漠北の覇者、チンギスハーンであっても、
中華の価値はこの程度、というよりも、
チンギスハーンたちには価値がないと考えていたことが
わかる。

異民族たちには、
中華の地は必要なく、
文明の産物を掠奪できればよいのだ。

この根強い考え方を打破したのは、石勒である。

石勒は孤児(みなしご)である。

もちろん漢民族ではないが、
異民族といっても、匈奴や鮮卑のような大族でもない。
羯とも言われるけれども、
その実態は不明だ。
一説には雑胡とも言われる。
中華の周辺領域の異民族でもない、
異邦人、外国人とも言われている。
ペルシアあたりから移動してきた族の末裔だったのではとも言われている。
となれば、
中華で呼ばれる「異民族」ですらない。

この中華では完全なみなしごである。

だからこそ、石勒は実力でのし上がった。
中華も異民族も統治する。そして統治し得た。

石勒は、
異民族は皇帝になれないと言われたが、
結局皇帝までのし上がる。

その中華伝説に最後まで晩年までに付き合うが、
漢人たちが痺れをきらして、石勒を皇帝に推挙した。

石勒が登場したことで、
漢人と異民族の様々な垣根が崩れる。
その一つとして、
異民族でも中華内地を統治できる、
というメンタリティの打破、パラダイム転換を
もたらしたのは大きい。

石勒以後の異民族は、
積極的に中華を統治する。

しかし、これは逆を返すと、
石勒以前は中華内地を統治する、という考えはなかったのである。

異民族は土地を支配するという考えを持っていない。

それを忘れてはいけない。

 

 

参考図書:

 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

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中国史〈2〉―三国~唐 (世界歴史大系)

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