歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

西晋を滅ぼした石勒、曹操との類似性。

 

 

石勒は実は曹操に酷似している。

石勒自身は曹操のことをあんな幼子(後漢献帝のこと)を騙して
権力を握ったひどい奴と言って蔑んでいるが、
実は遺言までそっくりである。

 

◾️石勒の遺言と曹操の遺言の比較◾️

 


結論から言うと、両者の遺言の言いたいことは、
「天下は定まっていないので、
我が死んでも、早々に喪を解き、戦いに備えよ。
墓陵は簡素にせよ」である。

 

曹操の遺言は有名で、
また先般曹操の墓が出土したので、その簡素なことはよく知られているであろう。

曹操は呉蜀という敵対者がいることもあるが、
秦漢の過度に豪華な陵墓造営を戒めたものでもあった。

 

曹操 ウィキペディアから引用。
曹操の遺言。
「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」
(引用終わり)

 

石勒 ウィキペディアから引用。
石勒の遺言。
死して三日の後に葬り、内外の百僚は葬儀が終わり次第、喪を解くと共に婚姻・祭祀・飲酒・食肉の禁を取りやめるように。征鎮や牧守は喪といえども持ち場を離れないように。死体を棺に収めるには時服、載せるのは常車を用い、金宝や器玩を副葬する必要は無い。大雅(石弘の字)はまだ幼いので、恐らく朕の志を継ぐにはまだ早いであろう。中山(中山王の石虎)以下、各々の群臣は、朕の命に違う事の無きよう努めよ。大雅は石斌と共に協力し、司馬氏の内訌を汝らの戒めとし、穏やかに慎み深く振舞うのだ。中山王は深く周霍(周公旦と霍光)を三思せよ。これに乗じる事の無い様に。」(引用終わり)

 

曹操と石勒の言っていることは全く同じだ。

喪を早く解き、職務に戻れ、

葬儀、埋葬に金をかけるな、

である。

 

なお、後継者問題で悩んだところも両者の共通点だ。
石勒は失敗し、曹操はうまくいった。
それは両者の問題というよりも、後継者とされた人物の能力であるので、
ここでは深くは言及しない。
石勒の子石弘は石虎に皇帝位を譲るからと言うほどまでにへり下るも
断られ、皇帝になるも一年後に石虎に殺された。
曹丕は見事に禅譲を成し遂げ、冷酷なまでに後継者争いのライバル曹植を始め、
宗族に力を与えなかった。
曹魏が曹丕、曹叡の統治下において中央集権で専制君主であり得たのは、
曹丕の手腕である。これを支えた陳羣、司馬懿は父曹操の遺臣ではなく、
曹丕自身の側近である。

●●曹丕 司馬懿について●●

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●石勒という奴隷出身者と、曹操という宦官の「孫」、究極の成り上がり。


曹操と石勒の存在こそが、その後の異民族皇帝、軍人皇帝の存在を可能にした。

石勒は、曹操と同じエリアに本拠を置いている。
曹操は宦官の孫、石勒は異民族の奴隷である。

曹操、石勒共にその出自ゆえに常に蔑まれた。

 

石勒が曹操を意識しないわけがない。
陸雲が鄴に旅行をして曹操の事跡を探しにいったことからもわかるように、
当時はまだ曹操の生々しい事跡が残っている時代でもあった。

●●陸雲●●

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石勒は曹操を蔑む素振りを見せながら、確実に曹操を意識している。


●中原の確保。事実上の天下取り。

 

曹操、石勒の両者とも中原を確保し、事実上天下取りを達ししている


しかし、長江を越えることと、蜀の天嶮を越えることはできなかった。

長江流域の揚州南部、荊州南部、蜀は滅ぼせなかった。
石勒軍は騎兵が強みで、
水戦や山岳戦は不得手であった。
これも曹操と同様である。

 

西晋は全て石勒により瀕死の状態に追い込まれた。
この事実は少々わかりにくい。

歴史をさらっと流しただけでは
私もわからなかったが、西晋を事実上の滅ぼしたのは石勒なのである。

鄴の司馬騰、幽州の王浚、幽州に逃れて抗戦していた劉琨、洛陽の懐帝、
豫州にいた故司馬越が率いていた王衍軍、
兗州の苟晞、これらを全て、壊滅、またはほぼ壊滅させたのは、
石勒である。

洛陽の懐帝だけは、ほぼ落城の状況で撤兵した。
劉曜に功績を譲った形とした。


また石勒は揚州建業の司馬睿、後の東晋元帝までも攻めている。
しかしながら、長江という大河に阻まれ、
揚州周辺の湿地帯に悩まされ、撤退。

荊州も江夏まで攻めている。

蜀にまではリーチしなかった。

最終的には華北を掌握。
魏の曹操が支配したエリアから、
漢中を除けば、そのまま石勒の最大の領域となる。

 

 

●中華統一王朝後漢と西晋を事実上の滅亡に追い込む、曹操と石勒。


これにより、石勒と曹操は歴史的に憎まれる。

石勒は自分を奴隷にした司馬騰を滅ぼした。
石勒は劉琨を并州から追い出した。
石勒は故司馬越軍10万の軍勢を皆殺しにした。
ここで西晋のソフトパワーを完全討滅した。


石勒は洛陽を陥落寸前まで追い込んで、最後は劉曜に引き渡した。
幽州の太原王氏の王浚を滅ぼした。

 

曹操は、宦官の「孫」で、

後の寒人にカテゴライズされる「くせに」、
漢人名族の袁紹を滅ぼし、
(余談だが、この袁氏というのは、
漢人名族の典型である。
袁紹出身の汝南袁氏は一旦ここで没落するが、
同族の陳郡袁氏は東晋以降の南朝において、
瑯琊王氏、陳郡謝氏と同格の「甲族」、
すなわち漢人貴族の中の最高の家格なのである。)


漢の末裔劉備を蜀まで追いやり、
後漢皇帝献帝を傀儡にして、子の曹丕に簒奪させた。

後々の中華正統史観を主張したい各王朝からすれば、
憎っくき曹操、石勒である。

 

曹操と石勒は、常に蔑視される階層の出身の「くせに」、

伝統的な貴族、名族層を破壊、殺戮した、最低の存在であった。

 

 

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●「鄴」を本拠に置く、軍事重視の姿勢。

 

 

石勒は荒廃した鄴ではなく、
一つ北隣の襄国に本拠を置いたが、
大きく見ればこれは鄴エリアである。

軍事戦略上の考えが、

鄴に本拠を置いた曹操に非常に類似していることがわかる。

張賓の進言通り、
鄴城三台の堅守も理由の一つであろう。
しかし、実態は、
この鄴エリアに石勒も本拠を置いたのは、
中華と異民族エリアの結節点であることが大きい。

●●●●鄴の位置付け●●

 

 

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軍事的に優位な状況を作りながら、中華を支配するにはこのエリアが
最適なのである。

 


●胡漢融合策の先駆者

 

曹操は匈奴を五部に分け、
匈奴単于を鄴に軟禁して、
匈奴の軍事力を確保した。

石勒は、
胡人(異民族の漢語表現)と呼ぶのを禁止し、
国人と呼ばせるよう強制した。

また胡人たちの横暴を禁止するよう、法律を強化した。

曹操、石勒のいずれも、
異民族と漢人の利点をうまく活かすための
施策である。

曹操、石勒共に、胡漢両者のメリットを享受すべく、
腐心した。

すなわち軍事力と生産力の両方を確保する。

これが他の群雄たちから頭一つ抜けた成功要因と言える。

 

 

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●石勒が嫌われる理由の実態は?


これほど偉大な事跡を残した石勒は
何故全くピックアップされないのか。

 

それは、
異民族の石勒が始めたことを、
隋唐王朝が引き継いでいるからである。


実は異民族の隋唐は、
自身を正統とするために、異民族である事実は隠したかった。

だから、中華正統史観を構成するために、
また同類嫌悪もあって、
石勒を徹底的にこき下ろすのであった。

 

漢人至上主義を標榜するときに、

曹操がこき下ろして書かれるのと同じである。

 

 

●●晋書

 

 

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