歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

曹操の兵戸制と屯田制=魏晋から南北朝前半までに渡り運用された制度

曹操の行なった政策の一つとして兵戸制というのがある。
これは永代の兵役義務を特定の戸、つまり一族に課するものである。
軍事行動の安定行動を狙った曹操の革新的な政策である。

これは曹操の行なった政策として非常に有名な屯田制よりも重要である。

 

これについて記述したい。

 

●「ヒール」曹操の隠された革新行為


曹操は兵農分離を実現していた。


日本では

16世紀の織豊時代(織田信長と言われているが最近は諸説ある。)に

完成した兵農分離。

中国では、早くも2世紀末、曹操により実現。その後中華では兵農分離が基本だ。

曹操は非常に革新的なことを行なったことになる。


曹操は、
現代の中国においてまで、その評価を二分するほど、
非常に評価の難しい人物である。
それほどまでに、
歴史上大きなインパクトを与えた人物である。

 

曹操は事実上中華正統王朝初代の漢王朝を事実上滅ぼした。

この判断が難しい。
曹操をどう判断するかは現王朝のスタンスにも大きく影響する。
それは、史観に関わってくるもので、
それぞれの王朝の正統性主張の伝説に関わる。

「歴史」という自身に有利な
伝説を作るために重要なのである。

 

曹操が悪く判断されると、革新的な行為が隠されてしまうのである。


曹操は歴史の中で、それほどまでに

インパクトを与え、そして非常に評価の難しいことを
してきたが、その中で少々埋もれがちなのが、
タイトルにある、兵戸制である。

 

●兵戸制、曹操の軍事力の源泉


曹操の事跡を辿る中で、兵戸制は見過ごされがちである。
しかし、これは魏晋から南北朝時代の前半期まで運用され、
非常に大きな影響を与えている。
兵戸制とは、
ある特定の家に永代、つまり一生兵役の義務を負わせるものである。
代わりに一般農民の負担はなく、戸籍も別であった。
この義務は、その家に課せられるものである。
世代が変わっても継承されるものである。
この家族は、全て兵役に従事する。
男子は戦争に駆り出される。
女子は、兵戸の人間とでなければ、結婚ができない。
現代までに続く、結婚制度が、国家命題と関わる一つの事例でもある。

 

現代の結婚制度についての批判は下記がわかりやすく参考になる。
●●堀江貴文著「君がオヤジになる前に」●●

 

 

兵戸に区分されると、逃げようと思っても厳しく処罰される。
このさきがけは、
青州兵であり、黒山賊である。


よく曹操は黄巾賊の青州兵を押さえたことで、強力な軍事力を手に入れ、
覇道に大きく寄与したとされるが、あの青州兵を
兵戸として曹操は管理したのである。数十万の人数と言われている。


張燕率いる中山の黒山賊、彼らも黄巾賊だが、
彼らは曹操に投降して兵戸に組み入れられる。
後に張燕の子孫は、西晋時代、中華統一に寄与したことを
誇るが、それはこういうわけである。


彼らが、兵戸として戦い、中華統一した、手足となったというわけである。
このため曹操は、この乱世において、
兵を兵戸以外の民から徴発していないとみられている。

徴発している事跡がないのでそう判断できる。
少なくとも制度としては兵戸制しかなく、
徴発の仕組みがない。大掛かりな徴発の記録がない、ということである。

人口が大幅に減少した後漢末においては驚異的なことである。

 

●●三国時代の人口についての記述●●

 

 

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上記黄巾族以外も各勢力を滅ぼすと兵戸に組み込んでいったが、
華北統一が進むと人さらいの対象が減る。
そのため兵戸の維持のため、今度は各地から寡婦を集めて兵に娶らせる。
そうして家(戸)としての単位が生まれ、兵戸となる。
民単位での分業がここで始まる。

 

●曹操の財政基盤を作る屯田制、それは徙民政策という強制移住による

 

兵戸が生まれることで、
軍事用の民と、農業を始めとした一般生産用の民が生まれたのである。

この兵戸制が後に述べる屯田制と合わさることにより、
徙民政策が必要となってくる。

民は用途別に分けられたことで、
例えば軍事力を強めたければ、
兵戸用の人が必要だとなる。

ある荒地を耕したいので、民を屯田させて、
農地を開発しようという発想になる。
そのためには、どこからか、民を
持ってこなくてはならない。
それが徙民政策である。強制移住のことを指す。

 

 

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屯田には、軍屯と民屯がある。
軍屯は、国境地帯において駐屯する兵に田を耕させる。
兵戸の兵たちに、国境警備のための自給自足を促すものである。

一方で、民屯は放棄され荒地となった土地を、
流民に与える。
民屯の民は郡県に所属せず、戸籍も作らない。
典農の管轄になり、つまり国家の直轄地ということである。
ここに所属するのは、

曹操により征服された民を強制移住させてきたものたちである。

税率は収穫の5割であり、
これは当時高率であった。

これが曹操の非常に重要な財政基盤なるのだが、
これは、五胡十六国から南北朝時代において
徙民政策が多用されるきっかけとなる。

 

民屯自体は、魏末に廃止されるが、
この征服した民を軍事だったり開発だったりに使うため、
あっちこっちに強制移住(徙民)させるということが起きる。

曹操の意図は、戦乱においての生き残り策として、
軍事と開発の分業、それをすいしんするための被征服民の移住であっただろうが、
特に五胡十六国時代においては、
人さらいが国家命題となり戦乱が長引く要因ともなる。