漢人の異民族に対する差別は、近代の白人の、有色人種に対する考えと同じである。
中華の歴史の中で、差別する差別される側というのは、固定していない。
600年から800年のタームで、変化していく。
差別された側が、差別した側を打倒していくのが中華の歴史である。
中華の歴史の中で差別するされるの概念が大きく変わった王朝は、
漢
唐
元
である。
差別意識の変わった、この三つの王朝はその後の王朝の基礎を作った。
●漢
漢はこの中でも最も重要で、
中華という概念の確立、
皇帝制、
漢民族、
漢字、
を創出した。
中華の原点を確立した王朝であり、
現代にも影響を及ぼす。
この時代こそが中華の原点である。
夏も殷も周も、後の中華思想からすれば、
全てを異民族だが、異民族だからこそ中華、中原を獲った者は
自分たちに味方をしない者を全て異民族とした。
その由来は交易サークルであり、交易の仲間に入るか入らないかの問題だった。
後に、様々な技術、文物も含まれていく。
周王朝の血縁者各地分封は大きく中華と呼べる領域を拡大。
そのため周王朝の力が弱まると、各地で戦いが起きるようになる。
それが春秋戦国時代である。
戦国時代に入ると、
特に最も有力国の七雄は、
ほぼ異民族由来ではないかという状況を呈す。
異民族が他の異民族を攻撃し合い、
誰が正統、中華であるということを主張しない、
中華の歴史の中では稀な時代が生まれた。
それに勝ち切ったのが西戎出身の秦である。
中華を統一した秦の始皇帝は強烈な自負心から、
再度中華思想を創出し、やはり「内」の概念を確立した。
内が外を差別する。その区別のひとつが万里の長城だ。
自分に服する者を中華とし、あとは排除する。
すぐに北方の匈奴、南方の百越を攻撃する。
差別された異民族の秦が、差別する側に回った瞬間であった。
しかし、
秦は早々に滅亡、漢の劉邦が中央集権を幾分か弱めるも、
秦の大半の制度を継承する。
劉邦は血統のわからない一兵卒の出であり、
これもまた差別された側が差別する側に動いた一つの事例とも言える。
漢は秦を受け継ぐ形で、中華の原点を確立。
唐の成立まで約800年、中華の原点としてあり続ける。
周王朝の成立から、秦の始皇帝誕生の年月までも約800年。
ちょうど同じタームである。
●唐
唐は、
漢民族に差別されて来た異民族が中華を
乗っ取った王朝である。
唐の出自は、鮮卑である。
鮮卑が魏晋南北朝時代をかけて、漢化した。
鮮卑に由来を持つ唐が、
文字通り「漢」に化け、自分こそが「漢」すなわち中華であるとした。
その実態は北方の鮮卑が、
中華を自称したものである。
これは本来の中華ではない。
本来の中華は南北朝時代では南朝が受け継いでいた。
唐は北朝に由来し、
南朝の全てを継承できるわけがない。
特に、唐は北朝の北周を受け継いでいる。
この宇文氏の北周は、北魏で行き過ぎと考えた漢化政策を改め、
鮮卑化するように戻している。復古政策だ。
この振り子のような揺らぎから、
生まれたのが隋であり唐であった。
それは、鮮卑の漢化の迷いであり、
結果としてうまく融合できたということである。
漢民族に差別されて来た鮮卑が、
自分たちのオリジナリティを保ち続けるのか、
漢民族になりきるのか、その悩ましい苦闘の歴史とも言える。
その答えが唐である。
唐はパッと見、鮮卑を一切感じさせない。
この所感は、皆一様だろう。
これが唐を始めとした鮮卑族の答えである。
鮮卑という異民族要素を捨て、中華になった。
●元
唐以来600年続いて来た、
新「中華」。
鮮卑族の勇猛さは失われ、
すっかり農耕・商業民族としての繁栄を謳歌していた、
「漢」民族。
そこにかつての鮮卑族ら異民族と同じ立ち位置として
登場するのが、
モンゴルである。
やはり彼らもかつての鮮卑族同様、
女真族で華北を支配する中華王朝、金から蔑まれて来た。
五胡十六国の異民族の英雄達と同様、
異民族モンゴルを背負って立つのが、チンギスハーンである。
本来ならば、
モンゴルのチンギスハーンも、
匈奴の冒頓単于や、石勒、鮮卑の北魏などのように、
強大な軍事力を背景に中華を席巻、
中華に根を張り、文化的に中華を受け入れるという
パターンになるはずだった。
中華文明の、中華、すなわち「内」という連帯感を作り出すものは
支配には非常に有用である。
支配の必然性は、天子=皇帝思想に由来し、
その統治思想は盤石である。
これに変わるものがない、異民族はどうしても弱い。
異民族は、実力主義であり、原始的で非常にシンプルだが、
広大な領域を支配するにはこれでは成り立たない。
常に実力を広い領域に誇示することは難しいからだ。
そこで統治の思想が必要になる。
異民族で、強大な軍事力を背景に、
広い領域を支配するものは、
便利な中華思想を利用して来た。
しかしモンゴルは違った。
偶然の産物か、モンゴルのシャーマン、ココチュ・テプテンゲリが
天の子として世界を支配すべし、という
思想のもと、チンギスハーンを名乗る。
漠北のモンゴルからすれば、
すぐに見える世界は、
西は中央アジア、北はシベリア、
東は満州、
南は中華。
ということで、
中華は一エリアに過ぎなくなった。
この思想のもと、モンゴルは世界を席巻、
東洋と西洋と分かれていた世界を、
初めて接続する。
フビライことセチェンハーンは、
中華領域を完全支配するが、
これはモンゴル世界帝国にとって、
一領域のことに過ぎない。
ハーン家の内輪揉めの問題で、
フビライは一部の族長たちのクリルタイにおける推挙で、
ハーンになったため、モンゴル帝国内部の対立はある。
だが、フビライはセチェンハーンとして、
世界を支配するという立場であり、
中華思想、天子=皇帝思想の範疇で中華領域に君臨しているのではなかった。
大都、後の北京は、
モンゴル語でハーンバリク、すなわちハーンの都という意味の名前であり、
大都ではなかった。
大都は後の中華の後付けだ。
この後、江南の明の反抗があり、
モンゴルは再度漠北に追いやられるが、
この時期もモンゴルは健在だった。
フビライ系のモンゴル、アリクブカ系のオイラートなど、
もともとのモンゴルを継ぐ者たちは明の治世全般に脅威をもたらした。
モンゴルが自立性を失うのは、
モンゴルのチャハル部が元の玉璽と持って、
女真族の後金ホンタイジに助勢するときである。
これにより、ホンタイジはモンゴルが受けた世界支配の思想を
継承したと考え、
女真族を満州族、
王朝名を清に改名。
モンゴルの最大領域には及ばないものの、
中華には皇帝として、
チベットにはチベット仏教の大旦那として、
モンゴル・満州にはハーンとして、
東トルキスタンにはイスラムの庇護者として、
現代の中国+モンゴルの領域に、
それぞれの立場を持って君臨した。
元・清にとって中華は一領域に過ぎず、
世界帝国としてその枠を大きく超えていた。
現代の我々が認識している「中国」と、
元、清は全く別物なのである。