歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋丞相王導の献言で司馬睿が南遷したという「嘘」=彼は保身に走る単なる政治家である。=

王導の献言で司馬睿が南遷したというのは嘘だ。

 

 

 

●●●●●司馬越の監軍 王導●●●

 

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●王導の虚実

 

後世のでっち上げだ。

瑯琊王の司馬睿に従った、瑯琊を本貫とする瑯琊王氏の王導だからといって、
納得してはいけない。

 

 

桓温が東晋簡文帝司馬昱に禅譲を迫った際に、
「諸葛武侯(諸葛亮)、王丞相(王導)のように補佐して欲しい」
という感動もののエピソードがあるからといって騙されてはいけない。

 

瑯琊王司馬睿は、王導の献言で建業に難を逃れたことになっている。
全くの事実誤認である。

 

荀彧の空弁当と同じだ。
荀彧や王導の末裔たちは、自身の祖先に対して、今の自分たちにふさわしい
エピソードを求めた。その結果である。

●●●荀彧は自殺していない●●●

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実態は、
保身に走るのみである。

 

307年に王導の進言で勝手に司馬睿が建業に行くことなどはあり得ない。

司馬睿南遷は
むしろ司馬睿が司馬越に忠実に従ったからである。

 

それが司馬睿の名声が高まった理由であり、
皇帝にまで登りつめた理由だが、
一方でリーダーシップに欠ける皇帝となった所以でもある。

 

王導が南遷を進言したというと何か納得感がある。

王導は印象が良い。


王導の第一印象は
諸葛亮と並び称される存在。
そして、
王導の事績を語る際、必ず司馬睿南遷の献言から話が始まる。

そんな王導は忠臣のイメージしか起きない。

しかしやったことといえば、北人のエージェントに過ぎない。

 

政治バランスを取ったというが、
それはただ自分たち北人、それは瑯琊王氏を
頂点としたものを維持するために過ぎなかった。

 

 

●司馬睿南遷は司馬越の指示

 

 

307年初頭、八王の乱を勝ち切った司馬越は、
各地を掌握を進める、
●●●司馬越四兄弟の出鎮●●●

 

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その一環として、
瑯琊王司馬睿は建業および江南方面に出された。

司馬越四兄弟は、綺麗に四方に散る。
洛陽を中心に、鄴、許昌、長安、襄陽と、

洛陽から見れば最も至近距離の重要都市だ。

司馬睿の建業は当時からすれば、
田舎だっただろう。司馬越四兄弟の誰も行ったことはなかったのではないか。
当然司馬睿も行ったことがなかっただろう。

にも関わらず行かされた。
それはやむを得ない。

 

洛陽の四方を固めるのは司馬越にとって最重要課題だった。

 

しかし、旧孫呉の建業・江南エリアを掌握することも重要だった。
一方で、孫呉と同様に割拠する可能性のあるエリアである。
そこで、司馬越に従順な司馬睿が選ばれた。
司馬越政権の中で、司馬越四兄弟の次席となるのが司馬睿でもある。

 


●司馬越直属の参軍王導は監軍として司馬睿南遷に同行。

 

 

とはいえ、八王の乱が終焉した後の307年だ。
司馬越自身も各宗族に対する猜疑は強かった。
そこで従順な司馬睿と言えど、監軍をつけた。
それが瑯琊王氏の王導である。

 

元々王導は司馬越の参軍なのだ。
参軍というのは、開府をした人物の属僚である。

 

参軍とは:

 

例えば、司馬師は大将軍府を開いたが、
その属僚としていたのが賈充である。
賈充は参軍のポジションで、大将軍司馬師の参謀である。

●●●賈充と司馬師●●●

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賈充は司馬師に認められて、高位に昇る機会を得た。
参軍というのは、このように権力者に近づくことのできるポジションである。

出世への近道であり、またそもそも権力者に好かれている人物がなるものである。

王導は司馬越の参軍から、司馬睿の監軍に転出した。

 

監軍とは:


今度は監軍だが、
日本では軍監と呼ばれるものである。

例えば、司馬昭の蜀漢討伐の際、
鍾会に監軍として付けたのが衛瓘(エイカン)である。

後に鍾会が反乱を起こした後、
辞退を収拾したのは衛瓘である。
また、後に勝手に鄧艾を処刑しているが、
これは衛瓘に権限が実はあるので、「勝手」ではない。

監軍というのは、
非常時に、軍勢の総司令官を上回る権限を持っている。

何故なら、軍勢に同行するとはいえ、
軍勢の総司令官の指揮下ではないからである。

では誰に付属するのか。

衛瓘の場合は、当時の魏の最高権力者である
大将軍司馬昭の指揮下にある。

だから蜀漢討伐軍の総司令官である鍾会は、
衛瓘に指示を出す権限がないというわけなのだ。

非常時に監軍である衛瓘が権限を振るうのは、
司馬昭の委任があるからなのである。


これを王導に当てはめると、
王導は、司馬睿の江南確保軍に同行するも


彼は司馬睿の指示に従わなくていい存在ということになる。

王導は司馬越に直属しているからだ。

五丈原において、司馬懿の出撃を止めたとされる、
辛毗と同じである。辛毗は魏明帝曹叡の使者である。

ということで、司馬睿が建業に行ったのは、
王導の提案でも、司馬睿の発案でもなく、司馬越の決定だった。


それなのに、後に司馬越の与党が滅び、西晋までも滅亡し、
残った司馬睿らが東晋を作ったのでこのような「伝説」となった。

東晋成立には都合のよい伝説、いやここまでくると物語だが、それが必要だった。

本来ならば皇帝である司馬睿の伝説にすればよかった。
だが、
王導は、東晋において皇帝をも上回る権力を持つに至る一族の祖であったため、
王導にこのような伝説が必要になったのだ。

 


●王導の自己保身



この指揮命令系統のねじれは、
東晋成立後にも影響を及ぼした。

司馬睿に従わなくてもよい、王導。
ある意味、王導の方が司馬睿よりも高位にある。

司馬越の名代だったからだ。

 

そして王導は東晋成立後、
王導にはやらなくてはいけないこともあった。
王導自身、北来の逃亡貴族で、
江南には何の資産もなかった。

王導は東晋成立したのちの丞相だが、
権力の源泉は何もなかったのである。


ではどうしたか。
それは東晋丞相という権威、
瑯琊王氏というのは貴種である、
というぐらいのものしかなかっただろう。

これを王導は最大限利用した。
江南土着勢力の内部対立を引き起こす。
東晋が引き上げる勢力と、引き上げない勢力を分け、
仲間割れを誘うのだ。

それで滅んだ勢力の資産は、

東晋、というより王導ら北来の貴族がありがたく頂戴する。


これにより、
東晋は皇帝権が著しく弱い王朝となった。

一方で、
王導の瑯琊王氏は、東晋を代表する貴族となった。
・・・
とよく言われるが、厳密な表現をすると、
東晋において、瑯琊王氏は東晋の頂点だった。


「甲族」と呼ばれる最上位のレイヤー(階層)に瑯琊王氏は入るが、
その中の頂点なのである。

南朝皇帝の末裔はその下のレイヤー(階層)になる。

貴種としては、
南朝皇帝を上回るということである。

皇帝の力が弱い時期は、
東晋は事実上瑯琊王氏のものといっても過言ではない。

にもかかわらず。
王導、王敦以降、瑯琊王氏の存在感は薄い。

つまりただ、富をむさぼるだけの存在、
それが東晋の瑯琊王氏の実態だった。


それに業を煮やしたのが、
桓温であり、その後の軍人皇帝たちなのである。