歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

関羽の実態は、義兄劉備を政治的に追い込んだ張本人


関羽については、
いつかしっかりと事跡を辿りたいが、長編になるので、
ここでは結論から言いたい。

 

関羽の、忠義、献身、尊皇なのは虚構だと言える、
一つのエピソードについて、
記述したい。

 

●関羽の襄陽攻撃は独断

 

それは荊州失陥である。

関羽は219年に単独で北方に曹操を攻めている。

これはおかしいのだ。


情勢としては劉備は曹操との漢中争奪戦を勝ちきった。
劉備は中原への道を一歩進んだ。
蜀と関中の間にある、置石のような漢中。
この漢中がないところに、蜀から北に出るには一つしか道がなく、
戦略的柔軟性に欠け、蜀に逼塞するしかないのである。

関羽は劉備の漢中攻撃の際には、曹操領の宛で反乱を起こさせ、
陽動作戦を実施している。
曹操の兵力を割かせるためだ。


しかし219年の関羽の襄陽攻撃は単独である。
劉備と連動していれば、劉備も関中、長安方面へ兵を出すなど行うだろう。
劉備は動いておらず、関羽は動いた。
これは上下関係から明らかで、関羽の独断だった。

 

関羽は同年漢中王に即位した義兄劉備から、
仮節鉞を受けているので、軍事の独断権があったのは事実だ。

 

漢中争奪戦は激戦で、疲弊も大きかった。
連戦は厳しい。
また諸葛亮の北伐が全て漢中を拠点に行われたことからわかるように、
蜀にとっての最前線基地で絶対確保の土地であった。

 

劉備や手堅い諸葛亮からしても、ここは少なくともも小休止だ。
漢中攻撃自体が、劉備勢の総力戦だった。

 

にも関わらず関羽は単独で動いたのだった。
劉備に対しての厚い忠義という話はここで崩れる。

 

いやいや孫権が騙したというだろうが、
孫権と劉備の関係は214年ごろから事実上の断絶状態だ。

同盟関係は曖昧ではあるが、事実上存在しない。

 

それなのに関羽が孫権に突かれたのは、
孫権が騙したからだ、というのは孫権に酷だろう。
孫権は謀略、人を騙すのに躊躇しないので、そのイメージが、
この推察を促進するのだろうか。

 

関羽は北を攻めて空っぽになった本拠の

荊州公安(江陵の南、長江南岸)を孫権に突かれた。


関羽の襄陽攻めに従っている兵卒は荊州の民だ。
曹操のように兵農分離していない。
孫権により荊州が落ちたことは兵の士気を著しく下げ、
兵は四散した。

関羽は孤軍帰るところが無くなった。

 

蜀の軍勢は、漢中に出ているので、支援の術がない。
また関羽の独断だったため、
この情報を劉備が知るのも遅かった。

 

南北に曹操、孫権軍に挟撃された関羽はさすがにひとたまりもなく、
敗死する。

 

 

●関羽は事実上の劉備から独立していた。

 


荊州失陥の際には、すでに五年は会っていなかった劉備と関羽。
劉備はその間、国家体制を整備し、昔の無頼漢ではなくなっていた。
諸葛亮ら漢人知識人が統治手法を持ち込んだからである。
これは後年の石勒、苻堅、北魏などが

漢人貴族層の支援を得て中華統治ができたのと同じだ。

 

一方、関羽はそのままだ。
腕っ節の強い、武一筋の人間。
それが荊州の責任者である。

 

王として振る舞っているのと変わらなかった。
孫権が関羽に対して個別に外交を求めてきたことがある。
孫権の娘を関羽の元に嫁がせようとするものだ。

しかし関羽は単独で断った。
龍が犬の子を娶れるわけなかろうと。

 

仮節鉞は219年に付与されているが、それでも軍事権のみだ。
外交権は付与されていない。

しかし、上記のやりとりは、関羽が独断で決済してしまった。

もう関羽と劉備の関係は破綻していたのである。

なお、当然だが、ここで孫権の個人的恨みを関羽は買っている。

残念な話だが、
劉備と関羽はもう義兄弟では無くなっていた。

面と向かって対立するわけではないが、
緩やかな独立勢力同士としての関係になっていた。

 

関羽は、
これで蜀漢の将来性を潰したと言える。

 

 

●劉備の政治生命にとって致命的な荊州失陥

 


関羽の独断とはいえ、
これは劉備の責任となる。

関羽を荊州の責任者にしたのは劉備であり、
義兄弟というあまりに個人的な人間関係だからだ。

 

さらに荊州は当時劉備政権を支えていた漢人知識人の
出身地であった。

 

劉備は赤壁の戦いののち、
孫権を騙くらかして、荊州南部を攻略するが、
その際に各地の知識人を士官させている。

 

彼らが劉備政権の統治組織を形成しているのである。

 

彼らの故郷が奪われたのは非常にまずい。
支持を得られないだけではなく、
彼らは故郷に帰る可能性がある。

 

一族を孫権に人質として握られており、
脅迫されたら帰るほかないというものも出てくる。

 

こうして、

荊州失陥は劉備にとって大きな政治問題となる。

 

●荊州失陥のスケープゴートになった劉封と孟達

 

そこで、まず劉備はスケープゴートを探す。
関羽の責任にすると劉備自身にも責任問題が降りかかってしまう。

 

白羽の矢が立ったのが、
劉封と孟達だった。
関羽の支援要請を断っていた。
関羽の独断なので、断って当然なのだが、
こうなった以上劉備は彼らに責任をなすりつけるしかない。

 

劉封に関しては、劉備も処刑を悩むが、彼は義父劉備の意図を読みきれない。
処刑しなくては国内がまとまらず、
劉備は養子劉封を人身御供とすることで、政治的にまとめる。

 

孟達は蜀の人で、劉備にそこまで義理立てる必要はない。
反旗を翻し魏についた。

そうして劉備は荊州討伐をする。

 

しかし夷陵で大敗。
白帝城に入り、そのまま亡くなった。

荊州人のいる成都中央政府に劉備はもう戻れなかったのだ。
まさに失意の元に死去、である。