歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉淵・石勒 事績が分かりにくい理由

劉淵、石勒に関する書物というのは非常に少ない。

特に石勒は少ない。中華史を大きく変えた人物なのに、注目されないのはなぜか。

 

 

 

●魏晋南北朝時代は中華圏と異民族圏の壮大な戦いの時代

 

それは単純だ。

中国正統の歴史に必要のない人物だからだ。

時代の破壊者、文明の破壊者としてだけ捉えているからだ。

 

中華の視点では、西晋を滅ぼし、

残った南朝すら結局滅ぼす王朝の祖先となっていた。

憎っくき劉淵、石勒である。

 

しかし、彼らをそれだけで捉えると、
この後の歴史の実態を見誤る。

 

隋の楊堅という中華の人が約三百年の時を経て中華統一を果たした。
その前は混乱の暗黒時代だったで終わる。

だから、分かりにくくされている。

そうせざるを得ない事情があった。

 

 

この暗黒時代こそが、
中華圏と異民族圏が融合し、新中華圏として拡張する時期なのだ。
この時代がさらに中華圏を広げた。
結果、残ったのは異民族圏を包含した中華圏である。


これは、
中華の文明力が
異民族にも通用することを証明している。
一旦、宇文泰は鮮卑化することで劣勢の東魏・北周を盛り返したが、
隋唐は結局漢化した。

 

中華の文明力は、

隋唐の帝室の出身が北方異民族であることを隠させるほどであった。

 

結局中華圏と異民族圏の戦いは、中華圏の戦いに終わったのだ。

 

 

そう考えるとなんと、
五胡十六国、
南北朝期の
歴史の面白いことか。

 

これは、中華圏と異民族圏、中華文明と異民族文明の壮大な戦いなのである。

 

 

●中華と匈奴の合いの子、劉淵の誕生:

 

本来相容れることのなかった両者。

 

中華は異民族を蔑視。
異民族は中華に虐げられるも、生きるためにその豊かな土壌に

生活の拠点を置く。

しかし、

自分たちの習俗を変えられない。

 

中華の力が伸びた魏晋期、
異民族はより力を弱めていた。

 

その末期に、

この時に、劉淵という存在が出現した。
匈奴にルーツを持つも、漢の教養を積んだ者である。

 

彼は西晋のエージェントであった。

西晋が八王の乱がなく、統一王朝として200年以上続けば、
ただ匈奴は漢化するのみであっただろう。

 

●●劉淵  西晋エージェント

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そうなれば、春秋戦国時代に多々存在した中華内地の異民族と同様に、
匈奴は漢人となり、自分たちのルーツを忘れ去っていたはずだ。
彼らは馬にも乗れなくなり、農耕に従事することになっていただろう。

 

しかし思いのほか早々と西晋が崩壊したことで、
劉淵は自立の道を選ぶしかなかった。

 

この劉淵のやむを得ない事情が、
漢化した異民族勢力を産んだ。

 

完全漢化をすれば、
彼ら匈奴はその軍事力を失う。
馬に乗れるという大きなアドバンテージがなくなるためだ。

 


しかし、劉淵の匈奴は、
その軍事力のルーツを残しつつ、
劉淵を始めとした
漢風の政治統治、

農耕を主体とした生産活動にも理解を示すことができるようになった。

 

これは異民族にとっては大きな転換である。

漢人の持つ文明が理解できたのだ。

 

しかし劉淵がもたらした胡漢融合の時代は、304年から310年の6年で終わる。
劉淵が死ぬと、異民族文化にしか理解がない劉聡が長兄劉和を殺害して、
帝位を乗っ取ったからだ。

 

これで、漢人たちを包含するという匈奴の帝国化の道は閉ざされた。
ただ、物資を掠奪する、人をさらって奴隷にする、だけでは、
帝国化できない。

 

帝国と言うのは現代の概念で説明すると、
多種多様な民族を包含した、広いエリアを包含し得る存在だ。

このような匈奴純粋主義ではそれはできない。

 

結論として、劉淵が建てた匈奴漢は、劉聡の死後、
身内の争いで滅亡する。身内同士の争いが、先代君主の死後に起きるのはまさに異民族の典型的な文化である。

これで、劉淵の匈奴漢が成し遂げたことは、西晋にとどめを刺すことだけであり、
後世にはただの時代の破壊者としてだけで捉えられるようになってしまった。

 

 

●劉淵の志を継ぐ石勒、胡漢融合を初めて推進する。

 

匈奴漢が道半ばにして、匈奴純粋主義に戻った後、

劉淵のスタイルを継いだのは石勒である。

 

そんな石勒も前半生はただの野獣であった。


華北で荒らしまわっていた、
石勒は劉聡よりも、さらに異民族気質であった。

各地、各都市を荒らしまわり、
掠奪、殺戮をし回る。

 

それは、劉淵の傭兵か、それとも
漢人を対象にした狩猟なのか。

 

黄河流域から長江北岸まで散々荒らしまわったのが石勒だ。

 

最後は寿春を前にして、豫洲の葛陂(かつは)で立ち往生するまで、
一体何の目的をもって荒らしまわっていたのか。

 

長い歴史の流れから見ると、
これは魏晋までの中華文明を逐次破壊していく作業だった。

 

しかし、これは石勒にとっては、単なる生命活動の一つに過ぎなかった。
生きるため、自分についてきたやつらを食わせるため、
漢人の都市を襲って、物資を掠奪しただけだ。

 

それは中華文明を破壊する行為だったが、
石勒にそこまでの意味も意図もなかっただろう。

 

ただ、寿春を目の前に、

たくさん物資がありそうな建業に行けないことがわかり、
華北に戻った。

 

どうも掠奪しなくても生きていけるらしい。
それは漢人の張賓が教えてくれている。

 

実際に中華統治のために、
張賓を筆頭にした君子営というのを作ろう。

そうすれば、漢人たちから継続的に物資を吸い上げることができる。

それは、石勒がその驚異のの軍事力で、

中華を荒らせるだけ荒らしまわったうえでの、
結論だった。

 

さあどうするか。というのは五胡十六国の各君主によってスタンスが変わる。
石勒は異民族と漢人を分け隔てることを禁じ、
同一とした。初めての胡漢融合政策である。

 

石勒は特に出身部族もなかったので、
本当の意味で唯一無二の存在として、華北に割拠し、
胡漢に君臨した。

 

石勒はソグド人の疑いがあり、
石虎も西方の出身と言っている。
もしかしたら、彼らは多文化を受容しやすい西域の出身だったのかもしれない。

 

 

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異民族の流儀でやれることをやり尽くした結果が、
石勒の胡漢融合であった。

 

それはもしかしたら、

西域出身かもしれない石勒ゆえにできたことだったのかもしれない。

しかし、これも劉淵と同様、石勒も自身一代のみで胡漢融合は潰える。

これ以後、隋の楊堅により中華統一まで、
漢か異民族かの路線を巡る錯綜とした時代が続く。

それは言わば、隋唐という融合帝国に至るまでの産みの苦しみである。