歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

③何故斉の桓公は重耳を受け入れたか。



私は晋という国は重耳以前の時代においては、
周王の世界、中華、中原ではなかったと主張する。

 

 

重耳が流浪した時代には、

晋はまだ夷狄扱いだった。

だからこそ斉の桓公は晋に干渉しなかった。

だからこそ中原の姫姓の国々は晋の重耳を嫌った。

成り上がり者の異民族だからだ。

 

このように私は考える。

 

●晋の武公までのあまりにもできすぎたストーリー:


晋の内乱の勝者武公(重耳の祖父)
のときにはじめて列公された、つまり晋という国として

周王に認められたと
考えている。

通史として語られるのはこうだ。
晋の家に2人の兄弟がいた。
長男は仇、次男は成師。
成師は、戦いが成功するという意味である。
仇はそのままアダである。

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翼本家     曲沃分家
    仇                 ←成師
         ↓
         ↓
本家←    末裔が称。

                         称の孫が重耳。

※称が本家を倒す。

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晋を継いだ仇にとっては
非常に不吉な名前で、成師には力を持たせないようにしていた。

しかし、成師としてはこの
野心を掻き立てる名前であるゆえか、
晋を継ぐべく動く。
しかし志は遂げられることなく世を去る。

その子孫たちは分家筋ではあるものの、本家との戦いを続ける。
この成師の野心を成就させたのが称である。
本家を滅ぼし、
彼は周王に諸侯として認められ、武公とされる。

晋の本家を滅ぼした武公は、晋を継いで良いと周王に認められたのだ。
後年の韓魏趙が晋を滅ぼし、列公されたのに似ている。


これらの話は全て「春秋」に依拠するものだ。
春秋はいつの成立か怪しい書物である。
魯の成立したといわれているが、言葉の使い方が魯のものではない
という研究もある。
前漢の後半に成立したという説もある。

いずれにせよ、春秋の成立は早くとも、
晋の武公の時代からは200年近くは経っていることがわかる。

既に伝承となっていることを書いているに過ぎない。

晋の成立に関するこの話を素直に信じられるかどうか。
本家を倒してすぐに諸侯として認められるこの不思議。
そしてそれを成し遂げた人物の名前が称という称えるという名前の人物。

あまりにも出来過ぎた話ではないか。

 

●異質な国、晋:

 

重耳の周辺に狄が多すぎる。
重耳の母は白狄である。
孤偃は狄である。
趙衰も狄である。
重耳の初めの亡命先も狄である。


あまりにも狄が多い重耳。


狄のハーフだから、そういう人物が集まっているのだろうと
思っていたが、果たしてそれだけだろうか。
少なくとも重耳自身が狄という異民族に由来する人物と言える。

また、

晋は中原諸国とは、

地理的な隔たりもある。


中原とは洛陽から泰山までの間を指す。

●中原とは。

 

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中原の概念は変化するが、元々はこのエリアである。

一方で晋は山西高原が領域である。
中原から見て、太行山脈を隔てた先である。

ここは森林が多く狩猟に向いていると言われる。
逆に言うと、農耕向きの平地が少ないとも言える。

中原の民とは別の文化の可能性が高い。 


●前677年に周から諸侯として認められた時に姫姓を与えられた。

 


私は武公の時に初めて諸侯となった狄の国が晋だと私は主張する。

その前の話は伝説だと考える。

少なくとも唐叔虞と武公には関係はなかったのではないか。

春秋五覇という覇者の概念を作る際に、

晋が異姓の国ではまずかった。

前漢の後期であれば、

中華正統史観である。異民族は匈奴を想起させ、

それが春秋五覇なのはまずい。

そこで晋は異民族ではなく中華とされたのではないか。

但し重耳の当時は、
それが知られていた。

だから周王と同姓の国々は冷遇したのではないか。
異民族の人間め、というわけである。

しかし異姓の国にはそのようなことは関係がない。
既に春秋時代に入ってから100年が過ぎており。
徐々に弱肉強食の時代になりつつある。

権謀術数の世界で重耳は役に立つ。

それで
厚遇されたのではないか。

斉の桓公は晋が周王の世界ではないと認識していたので、
晋に遠慮なく重耳を受け入れた。
夷の晋重耳が斉に帰朝するのは、桓公にとって権威を増すものである。

それで大喜びで、
20乗の馬を重耳に与えたのではないか。


しかし、姫姓の国々は周王室の血統であることが統治の理由である。
それを侵しかねない晋を心底嫌ったのではないか。

 


●異民族の春秋五覇、呉も越も同様だ。



呉王は周王に連なると主張している。

周の文王の伯父、太伯と虞仲の二人が建国したと言われている。
どう考えてもあり得ない話だ。

 

薩摩島津氏が自分で作った自身の歴史「島津国史」

にて先祖の忠久は、源頼朝とその側室の子であると、主張しているのに似ている。



越王に至ってはもはや関係がない。

後の百越の祖先であろう。

史記では、夏王朝の末裔と言っているが、これは中華世界が越まで及ぶことの

主張に過ぎない。
しかし、会盟の盟主であったので
春秋五覇の一人として数えられる。

春秋が完成する頃は、
呉王夫差や越王勾践が正に覇権を争う時代である。

彼らがいくら素性を僭称しようとも、
春秋を作成している人物たちが認められない。
同時代のことなので、
嘘をつけないのである。


このように

呉や越などの南蛮はその系譜に疑義がある。
北狄エリアの晋に疑義があってもおかしくはない。

しかし、「春秋」の成立が歴史を作ったので、
春秋は無謬であると言いたい。

春秋時代の主役は晋なのだ。

覇権国晋は限りなく中華の正統性を主張する存在であってほしい。

だから晋の伝承はそのまま認めたのではないか。
晋の武公の時代から既に200年経っているから、
うやむやにできる。

150年近く中原の覇者として存在した晋は異民族と言いたくない。

そういう気持ちが晋の出自を隠したのではないか。

晋はこれができた。

しかし、呉や越はできなかった。

春秋が完成する頃と、
呉王夫差や越王勾践が覇権を争う時期は同じだからである。

彼らがいくら素性を僭称しようとも、
春秋を作成している人物たちが認めない。
認めたくない。認めなくてはいけない理由もないのである。

彼らは明確に中華の民とは別の種族だったからだ。