歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

②石勒の中華戦記 三度の洛陽攻撃と荊州北部転戦 310年7月〜311年6月


305年の反乱から、312年葛陂の撤退までの

石勒の野獣期の続きを記したい。

 

 

 

 

 

匈奴漢による西晋帝都洛陽の攻撃は三回ある。

・310年7月 総大将劉聡(劉淵三男)

・310年10月 総大将劉粲(劉聡次男)

・311年5月から6月 総大将劉曜(劉淵養子、族子)

 

 

 

三度目の正直で、洛陽は陥落する。

この全てに石勒は参軍している。

 

 

 ●洛陽攻撃を境に、河北から荊州北部へと戦いは移る。

 

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310年第一次洛陽攻撃から311年第三次洛陽攻撃まで

・310年7月

第一次洛陽攻撃。

石勒は劉聡の洛陽攻撃に参加する。

洛陽攻撃自体は失敗する。

・310年8月

劉淵が死去する。

後継者の劉和が皇帝に即位する。

すぐに劉聡ら宗族の排除に動く。

しかし返り討ちに遭い、劉聡が皇帝となる。

劉聡は劉淵の三男で、匈奴の習俗に染まっている人物である。

ここから匈奴漢の方針、スタイルが変更していく。


・310年10月

第二次洛陽攻撃。

劉聡の次男劉粲の洛陽攻撃。

石勒も参加。失敗。

 

政変後、すぐの大掛かりな洛陽攻撃である。

劉聡が功を急いたか、それともただの戦争好きか。



石勒はその後、襄城、襄陽攻撃に転戦する。

 

ここで劉聡の方針転換があったようだ。

鄴を中心に河北を転戦していたが、

荊州方面へと軍を進める。案外と素直なものだ。

 

308年に劉淵に帰順した王弥が

魯と豫州の大部分の攻略を成功していたため、

王弥をそのまま河北に当てた。

 

王弥は今は亡き匈奴漢皇帝劉淵の旧友で、

漢人のトップである。

 

石勒は当然下っ端である。

 

匈奴漢が手をつけていない荊州北部へと転戦する。


・311年初頭

江夏を急襲。

江夏より先は雲夢沢という湖・湿地帯が広がる。

 

石勒の軽騎兵が俊敏に動けるのは江夏までである。

曹操がたどりついたのもここまでであった。

 

 

●荊州から豫州へ山越えして西晋の中核軍を破滅させる


・311年2月

新蔡攻撃。

すぐに江夏から豫州の新蔡に移動する。

歴史上、あまり使われないルートだが、

ここには道があった。

山を越えれば、江夏から北西に山を越えると新蔡に出る。

 

急遽のルート変更。

 

ちょうど許昌から南西に動く10万の軍勢がここにあった。

司馬越勢の総帥司馬越が率いる軍である。

 

これは石勒の意図的な行動なのか。

それとも偶然か。

江夏までたどり着くと、

次は北に戻る他ない。

 

石勒たちは舟が調達できない。

また長江流域は湿地帯が多いので、

石勒たちの軽騎兵が使えない。

 

これ以上南下するのは石勒たちにとって危険が大きかった。

 

ただ単に北に戻るところに司馬越軍が来たか。

それとも司馬越軍の動きを察知して、山越えをしたか。

 

私はこの山越えルートが一般的ではないことから、

石勒は司馬越軍の動きを察知して、北西に動いたと考えている。

 

・311年3月

項県にて司馬越に病死。

私はこの司馬越軍の目的地は建業だと考えている。

 

●●司馬越の向かう先は建業

 

 

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そもそも石勒討伐のための出兵であれば、許昌に構えるはずだが、

早々に進発している。

 

西晋懐帝からも、匈奴漢による洛陽攻撃があったばかりで、

軍を率いて洛陽を出ることは、すなわち洛陽を空っぽにすることだ。

それはおかしいのではないかと叱責されている。

 

タイミング的にこの司馬越軍が洛陽を進発するのはおかしいのだ。

 

この時点では、懐帝と司馬越の関係は決裂しており、

このやり取り自体ももはや虚しいものである。

 

ちょうど豫州を確保していた王弥が移動したこともあり、

洛陽から南西に動きやすかった。

 

それで司馬越は動いたのだろう。

つまり、ここには匈奴漢勢がいなかったということだ。

 

しかし項にて司馬越の命は潰える。


・311月4月

石勒は、そこを攻撃し、この西晋の中核軍を破滅させる。
旧司馬越軍の王衍らを攻撃。

この軍勢は官僚や輜重も大量に含まれている軍勢で、

機動力がなかった。

 

石勒の数千の軽騎兵で巻狩りのように囲い込み、

弓矢にて遠くから次々と殺していく。

 

この西晋軍は10万人と言われているので、

結果的に大量殺戮となった。

太尉王衍以下貴族層を多数捕獲する。

 

石勒、大殊勲である。

捕虜は連れ去れなければ、使い道がない。

これだけの人を連れて帰るのも寡兵の石勒勢には難しい。

石勒は王衍に対して、

西晋が滅びたのはお前のせいだ、と言い放って殺し、

他のことごとく処刑する。

 

いわば戦国時代の秦の白起が、長平の戦いで、

趙を破り、数十万の兵を生き埋めにした事例と似ている。

 

連れて帰れず、解放すると敵国に利する。

となれば、殺すしかなかろう、ということだ。

 

西晋は繰り返しだが、貴族層が含まれていた。

彼らが殺されることで、

これで国家の統治機能不全も起こすことになる。

 

その後石勒軍は、北西に進路を取り、
洧倉(許昌の北東)まで軍を進める。

 

許昌の東が襄城である。

 

石勒は10ヶ月でちょうど一周回るような動きを取った。

 

●石勒は洛陽陥落の褒賞(掠奪)から排除される。

 

・311年5-6月

第三次洛陽攻撃。

劉聡の指示で、洛陽攻撃に石勒も参加する。

洛陽陥落。

石勒は、洛陽陥落を目前に戦線から離脱。

許昌に行く。

この当時の石勒は指示に素直なことと、

洛陽陥落の後劉曜が略奪をして王弥と対立することから考えると、

略奪の取り分を減らすために、石勒は劉曜により、

洛陽から追い出されたわけである。

 

最後までいなくては、異民族の慣習である戦争の褒美、

掠奪ができない。

 

穀陽、陽夏(陳郡)攻略。

蒙城(譙郡)の苟晞(コウキ)を攻撃。

苟晞(コウキ)捕獲。左司馬とする。

 

河北転戦の際、度々邪魔をされてきた苟晞をここで撃破した。

石勒は苟晞を幕営に迎えるも、後に気が変わり、

処刑する。