歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

③石勒の中華戦記 第三次洛陽攻撃から王弥暗殺 311年6月〜311年10月

石勒は洛陽最後の陥落を前にして洛陽を去る。

石勒がいない、洛陽において、劉曜と王弥は対立。

そのとばっちりを受けたかたちで、石勒は王弥に付け狙われる。 

 

西晋滅亡を期に匈奴漢が内紛を起こし始める。

先に王弥の視点から、西晋滅亡から王弥が石勒に暗殺されるまでの、

半年を追いたい。

 

 

第三次洛陽攻撃により、

西晋は事実上滅亡した。

 

西晋滅亡の年は、見る角度から諸説ある。

私は、311年6月が西晋の滅亡と考えている。

 

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西晋懐帝は匈奴漢により拉致され、

西晋の国としての実態は消滅した。これが永嘉の乱の結末である。

 

 

匈奴漢の視点からすると、当面の大きな目標を達成したことになる。

匈奴漢に限らず、国家に限らず、大きな目標を達成した後は、

組織の紐帯が緩むものだ。

 

●劉曜と王弥、価値観の違い。

 

臣下に限ると、

劉曜は、異民族のトップ。

王弥は、漢人のトップである。

 

この両者が対立するのである。

 

きっかけは、

王弥が劉曜の洛陽の処置に関して不満を覚えたからである。

劉曜が王弥の進言を聞かず、洛陽を廃墟にしたから。


王弥は洛陽を維持して、

平陽からの遷都を進言した。

結局王弥は漢人としての価値観で、新たな王朝の成立を

漢人文明の中心、洛陽で打ち立てたかったのだ。

その王朝の功臣に王弥になりたかった。

 

しかし、

劉曜は受け入れず、洛陽を廃墟にする。

掠奪は異民族の流儀である。

そして異民族にとって漢人文明の産物、都市は何の役にも立たない。

 

●冒頓単于からチンギスハーンまで異民族は都市の活用の仕方がわからない。

 

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おそらく劉曜に悪気はなかっただろう。

これが異民族なのだ。

 

現代の都市文明に生きる我々も、自分たちの価値観で

劉曜を否定してはいけない。

 

劉曜は戦に滅法強い。

 

戦に強い帥将の条件は、

戦略、戦術に優れている、

そもそも勇敢だ、ということがある。

だがそれよりももっと大切なことは、

軍規に厳しいこと、つまり信賞必罰、

その結果、将兵に慕われているということである。

 

劉曜は確実にその範疇に入る、勇将の一人であった。

異民族の流儀では、

戦いに勝った褒賞は、掠奪なのだ。

劉曜は確実に掠奪を配下にさせる。だから劉曜は強いのだ。

 

王弥の進言など受け入れられるわけがない。

劉曜は王弥が何を言っているのかすらわからなかっただろう。

 

私は、劉曜と王弥が対立関係に入った理由は、

王弥にあると考える。

 

異民族の匈奴、劉曜にとって洛陽に特別な意味はないのだ。

ただ敵国のトップがいるから、掠奪の対象が他よりも

多いだろう、ぐらいの意味である。

 

劉淵の死がこの対立を生み出した。

王弥は旧友の劉淵を頼って匈奴漢についた。

劉淵は漢人文化に理解があったし、

厚遇してくれたので、王弥にとって心地が良かったはずだ。

 

しかし、劉淵が死去し、劉聡、劉曜が匈奴漢を仕切るようになり、

急速に匈奴化が進む。

 

王弥にはそれは耐えられなかった。

 

 

これで、王弥は匈奴漢を見限った。

王弥は、劉淵と仲が良く、

当時匈奴漢において漢人のトップであった。

独立の意志を持つ。

まずは、青州の左長史、つまり王弥の代官曹嶷と連絡。

独立の画策。

 

●石勒は王弥に狙われるも、返り討ちにする。

 

独立を遂行する上で、

かねてより対立関係のあった石勒を王弥は警戒。

まずは石勒を血祭りにあげて、自立しようとする王弥。

石勒のフィールドは豫州である。

王弥のフィールドは兗州、青州である。

南北に境を接している状況。

 

関係が悪いということもあるが、ただ王弥が自立するに当たって、

南にいる石勒が邪魔なのである。

 

石勒は鄴に一人派遣されたり、その後荊州へ転戦させられたり、

そして王弥に狙われたりと、かなりの苦労を強いられていることがわかってくる。

 

王弥は隠密に石勒を狙い始める。

だが、

石勒はその動きに早々と気付いている。

王弥は石勒に気づかれていることに気づかない。

 

このような状態で、

西晋滅亡後の混沌の時期が始まる。

 

 

・乞活とは

石勒が乞活の陳午と蓬関で戦う。

乞活は、異民族の支配は絶対に受けない、という信念を持つ、

漢人流浪集団。

異民族と不倶戴天の関係である。

 

司馬越の弟司馬騰が并州から鄴へ逃げてきた時、

食い扶持がない漢人たちを冀州方面へ向かわせて、

自活を求めた時に生まれた集団である。

 

乞活は、石勒の恩人、汲桑を殺害している。

 

洛陽陥落後の混沌とした情勢の中、

王弥軍が、

西晋残党勢との戦いで劣勢になったとき、

石勒に救援を求めた。

石勒は忌々しく思うも、

石勒は張賓の進言に基づいて、救援。

これで、

王弥は石勒に対して警戒心を解いた。

311年10月、

石勒は王弥を酒宴に誘う。

王弥は疑うことなく参加。


宴もたけなわになると、

石勒自身が刀を片手に王弥に近づき、斬殺。

王弥の兵を吸収。王弥はこの時点で、匈奴漢の大将軍・斉公であった。

 

●匈奴漢皇帝劉聡は斉公・大将軍の暗殺を罰しない。

 

匈奴漢皇帝劉聡は

石勒を咎めはするも、

力をつけつつある石勒勢力を

無視はできず、結局本件については見逃す。

 

法の遵守よりも、利を取る、異民族らしい

判断を見せる劉聡。異民族の弱肉強食の文化が

この辺りにも垣間見える。

 

石勒が王弥を殺したことで、
匈奴漢としての胡漢融合は終わった。