歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

④石勒の中華戦記 王弥暗殺から孤立、葛陂で八方塞がり。311年10月〜312年

311年6月に洛陽が陥落する直前に

石勒は豫州へと向かう。元の戦線へ戻れということである。

道中、付け狙われていた王弥を

途中、多分許昌周辺で暗殺。これで石勒は孤立する。

 

 

311年末までに掛けて

石勒は豫洲を転戦し、攻略。

寿春に至り、葛陂まで戻る。

 

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洛陽陥落から葛陂へ至るまで。

●石勒は王弥を暗殺したから逃げたのだ。 

 

洛陽から葛陂に至るまでの石勒の足跡は上記の通りだ。

 

結論として、これは石勒が匈奴漢の重鎮、

斉公・大将軍の王弥を殺したため、

匈奴漢からなるべく逃げようとしたものである。

 

匈奴漢皇帝劉聡のいる并州からなるべく離れたい。

そういう石勒の思いからである。

 

そうでなければ、わざわざ中華の端まで逃げる理由がない。

匈奴漢の勢力圏からも大きく外れ、そして、当時晋のツートップの一角、

司馬睿の勢力圏に入りつつあるのだ。

不利な情勢になるにも関わらず、長江方面へ動いたのは、

逃げるためである。

 

結果的に劉聡は石勒を罰しなかったが、殺されても本来はおかしくはない。

 

石勒は事実上、王弥を暗殺した段階で、

匈奴漢と手切れとなっていたことがこれでわかる。

 

ただ劉聡、石勒ともに表立って敵対する必要がなかったので、

曖昧なままになっていただけである。

 

石勒は王弥を暗殺するまでは、匈奴漢の指示に従順だった。

石勒は王弥を殺した時点で、自立せざるを得ない状況に追い込まれたのだった。

 

●石勒孤立する。行く当てない行軍


許昌に行く。穀陽、陽夏攻略。この辺りで、石勒は王弥を呼び出し暗殺。


蒙城の苟晞(コウキ)を攻撃。苟晞(コウキ)捕獲。左司馬とする。 

 

そこから、長江まで出るも、

そこで軍を返して豫洲汝陰郡葛陂に駐屯。

寿春の北に淮河があるが、これを越えるのは簡単なことではなかった。

 

ここで晋の并州刺史兼都督并州諸軍事の劉琨から使者が来る。

 

●劉琨の石勒降伏勧告説得は決して的外れなことではなかった。

 

さて、葛陂で駐屯している石勒の元に劉琨の使者が来る。

劉琨は兄劉輿とともに賈謐二十四友の一人で、

当時漢皇帝の末裔の中で最も名声のあった者である。

 

●●劉琨●●

 

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兄劉輿は司馬越の側近だったが、310年に死去していた。

 

劉琨は捕らえていた石勒の母王氏と族弟の石虎を返還して、

晋に帰順するように説得をする。

 

歴史の結末を知っている我々は、

この劉琨の行為を嘆くとともに浅はかだと憤慨する。

まして、この後、石勒の尖兵として戦う猛将石虎が石勒麾下に入ってしまったのは、

東晋視点からすると非常にまずいことだ。

 

だが上記のように前後の経緯を考えると、

劉琨の経緯は決して的外れなことではないのだ。

 

石勒は葛陂滞陣の時点で、完全に孤立していた。

兵糧が尽きれば、石勒軍はこのまま息絶えてしまう。

 

匈奴漢と手切れとなり、豫州を彷徨っているだけの、

石勒軍は劉琨が降伏勧告をすると判断するだけの材料を備えていた。

 

この状況を并州晋陽にいながらにして、判断できた劉琨は、

的確な情報収集能力を持ち得ていると見る。

 

そして劉琨は思い切った。

石勒の母と族弟を返還して、晋につくようにと説得した。

単なるお人好しではないのだ。

この時の劉琨から石勒に対する説得が下記である。

 

中国の歴史 中華の崩壊と拡大 川本芳昭著 p70から引用する。

「古のよりこの方、異民族出身で、この中華世界の帝王となったものはいない。

しかし、名臣や国家に勲功を立てたものならばいる。

将軍(石勒のこと)は軍略に長けているのだから、

必ず勲功を立てられるだろう」

 

中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

 

 

 

まあ何とも漢民族優先主義に立った不遜な劉琨の書面だが、

これが当時の一般的な漢人の感覚だったことは間違いない。

 

石勒は丁重に断り、礼物を送って、これ以後劉琨と関係を絶ったとしているが、

実態は相当に迷ったはずだ。

 

●葛陂の悟り

 

明けて312年、葛陂駐屯の構え、

建業侵攻を企てるも、

長雨のため上手くいかなかった。

 

石勒は匈奴漢からは事実上の断交状態だ。

まさに劉琨の書面から窺える通り、

石勒の選択肢は、二択だった。

皇帝への道を目指すか、晋に帰順するかであった。

 

葛陂より南方へ行くことは非常に難しい。

湿地帯が多く、その地での戦いは石勒は不得手だった。

 

だから葛陂にて八方手が塞がったので、

諸将が晋への降伏を進めているのだ。

 

石勒はそれに苛立ち、激怒して却下する。

色々な思いが去来したことだろう。

本来なら晋には付きたくない。

 

自身を奴隷にした司馬騰らへの反発。

この劉琨の人を見下したような態度。(劉琨にはその自覚はないのだが)

石勒が挙兵前、漢人から犬畜生同然の扱いをされていたことも

思い出しただろう。

 

晋に降伏したくはないが、

しかしそれ以上の案もなかなかない。

 

そこを救ってくれたのが、

漢人の張賓だった。

 

河北へ戻り、鄴周辺で割拠すべし、である。

 

これで、葛陂から撤退を決めた。

と同時に、石勒は完全に独立の道へ進むことも決めていた。

 

寿春集結の司馬睿軍を石虎の陽動作戦で上手くまいて撤退を成功。

いきなり殿を務める石虎。

どれほどに石勒に信頼されていたかがわかる。

石虎は後世の評価は悪いが、石勒には逆らわない。

その勇武は当時随一である。

 

文の張賓、武の石虎。石勒陣営、人材は揃っていた。