歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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⑤石勒の中華戦記 葛陂から襄国へ撤退 それは匈奴漢への背信行為 312年

 

石勒は葛陂を引き払って、勝手に襄国に本拠を置いて、

河北制覇を目指す。

それは匈奴漢皇帝劉聡に対する背信行為であった。

 

石勒にとっても大きなリスクを背負ってのアクションだったが、

劉聡は特に動かない。

 

石勒は鄴と襄国という戦略的要地をうまい具合に抑えて、

自立の道を進む。

 

 

 


●石勒の葛陂の撤退は匈奴漢からの命令違反

 

 

312年石勒は葛陂を引き払って、一路河北を目指す。

 

これは明確な命令違反であった。これは相当なリスクだ。

石勒は劉聡の命令により荊州、豫州方面へと転戦していた。

洛陽陥落の直前に、劉曜から外されて、豫州へと赴いたのも、

指示通りだ。

 

葛陂の駐屯までは匈奴漢の指示通りなのである。

ここで葛陂を引き払って河北へ帰るのは命令違反である。

軍法会議で処刑ものの違反である。

 

しかし途中で石勒は王弥を殺していた。

劉聡は王弥が自立しようとしていたことを知らなかったので、

石勒を処罰しようとしたが、石勒の力を利用することを取り、

処罰は取りやめた。

 

しかし劉聡はそこまで甘い皇帝でもない。

石勒には王弥を殺したことで劉聡の不興を買っていたことぐらい

わかっていた。

 

そもそも劉聡と石勒には大して面識すらなかったはずだ。

石勒は劉淵の元に亡命し、

数ヶ月で出兵している。

その後并州には戻っていないのだから、

劉聡と親しくなれるわけがない。

 

劉聡は王弥のことを不問にしたとはいえ、

それがどれほどに曖昧な処置かがわかっていた。

 

だからこそ南方に逃げたのである。

そして北へ帰る。

それは自立するためであった。


●石勒、旧王弥の領域を通過して、襄国に入る。

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石勒は河北へ帰る。

葛陂から北へ向かう。

許昌周りだったかはわからない。

白馬、延津周辺の黄河渡河地点を使う。

 

そこに至るまでは、全て旧王弥の領域だった。

石勒にとっては完全な敵地であった。

どうもこの石勒の北帰の時点では、

このエリアは東晋に降っていたと思われる。

 

兵糧が欠乏していた石勒軍は、途中で略奪をして

兵糧を調達したかった。

しかし、各都市が、

城門を固く閉めて守っているため、それができなかった。

旧王弥の領域なので、石勒に対しては恨みがある。

かなり苦しい思いをして黄河までたどり着いた。

 

312年7月、支雄と孔萇は文石津(延津胙城东北)から

筏を使って慎重に渡河。

石勒自身は酸棗(延津の南)から

棘津(延津の東北)へと向う。

向冰は石勒軍の襲来を知ると、船を集めて迎撃。

その時既に、支雄らは渡河を完了させて

向冰の砦門に到達しており、

船30艘余りを手に入れると、

兵を全て渡河させていた。

このまま鄴を攻撃。

石勒が鄴を陥落させるのはこれで3回目。

陥落させ、石虎に鄴を預ける。

石勒自身は襄国に拠点を置く。

 

河北で割拠するためには、幽州の強敵王浚を抑え込む必要があるためだ。

石勒、ようやく腰を落ち着ける。

 

なお信都郡から葛陂までは東京から青森間の距離。

この7年間、この距離の間を絶え間無く戦陣で石勒は過ごしてきたのである。