石勒は葛陂を引き払って、勝手に襄国に本拠を置いて、
河北制覇を目指す。
それは匈奴漢皇帝劉聡に対する背信行為であった。
石勒にとっても大きなリスクを背負ってのアクションだったが、
劉聡は特に動かない。
石勒は鄴と襄国という戦略的要地をうまい具合に抑えて、
自立の道を進む。
●石勒の葛陂の撤退は匈奴漢からの命令違反
312年石勒は葛陂を引き払って、一路河北を目指す。
これは明確な命令違反であった。これは相当なリスクだ。
石勒は劉聡の命令により荊州、豫州方面へと転戦していた。
洛陽陥落の直前に、劉曜から外されて、豫州へと赴いたのも、
指示通りだ。
葛陂の駐屯までは匈奴漢の指示通りなのである。
ここで葛陂を引き払って河北へ帰るのは命令違反である。
軍法会議で処刑ものの違反である。
しかし途中で石勒は王弥を殺していた。
劉聡は王弥が自立しようとしていたことを知らなかったので、
石勒を処罰しようとしたが、石勒の力を利用することを取り、
処罰は取りやめた。
しかし劉聡はそこまで甘い皇帝でもない。
石勒には王弥を殺したことで劉聡の不興を買っていたことぐらい
わかっていた。
そもそも劉聡と石勒には大して面識すらなかったはずだ。
石勒は劉淵の元に亡命し、
数ヶ月で出兵している。
その後并州には戻っていないのだから、
劉聡と親しくなれるわけがない。
劉聡は王弥のことを不問にしたとはいえ、
それがどれほどに曖昧な処置かがわかっていた。
だからこそ南方に逃げたのである。
そして北へ帰る。
それは自立するためであった。
●石勒、旧王弥の領域を通過して、襄国に入る。
葛陂から北へ向かう。
許昌周りだったかはわからない。
白馬、延津周辺の黄河渡河地点を使う。
そこに至るまでは、全て旧王弥の領域だった。
石勒にとっては完全な敵地であった。
どうもこの石勒の北帰の時点では、
このエリアは東晋に降っていたと思われる。
兵糧が欠乏していた石勒軍は、途中で略奪をして
兵糧を調達したかった。
しかし、各都市が、
城門を固く閉めて守っているため、それができなかった。
旧王弥の領域なので、石勒に対しては恨みがある。
かなり苦しい思いをして黄河までたどり着いた。
312年7月、支雄と孔萇は文石津(延津胙城东北)から
筏を使って慎重に渡河。
石勒自身は酸棗(延津の南)から
棘津(延津の東北)へと向う。
向冰は石勒軍の襲来を知ると、船を集めて迎撃。
その時既に、支雄らは渡河を完了させて
向冰の砦門に到達しており、
船30艘余りを手に入れると、
兵を全て渡河させていた。
このまま鄴を攻撃。
石勒が鄴を陥落させるのはこれで3回目。
陥落させ、石虎に鄴を預ける。
石勒自身は襄国に拠点を置く。
河北で割拠するためには、幽州の強敵王浚を抑え込む必要があるためだ。
石勒、ようやく腰を落ち着ける。
なお信都郡から葛陂までは東京から青森間の距離。
この7年間、この距離の間を絶え間無く戦陣で石勒は過ごしてきたのである。