歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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⑥石勒の中華戦記 襄国を拠点に華北割拠へ 312年冬〜314年3月まで

石勒は河北襄国に拠点を置き、ここから、

②襄国を拠点に華北割拠、華北統一へ。群雄の一人

という時期に入る。

 

 

ただ、戦うだけの石勒ではなくなってくる。

一手一手戦略的に進める石勒像が見えてくる。

かつ、以前の機動的な軍事行動はそのままである。

 

 

●石勒は襄国と鄴を足がかりに王浚と戦う。

 

312年の冬までに、

石勒は襄国に本拠を構える。

あまり知られていない都市だが、

春秋時代までは刑という国があった場所である。

現在は刑台市という。

 

ここから北へ抜ける道が、幽州への安定した道である。

東側は元々黄河の流路であったため、湿地帯である。

また、

土地に塩が出てしまい、人が住むのに適していない。

都市も少なく、土地があるように見えるが、使えない不毛の地である。

 

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 引用:中国歴史地図集

 

 

石勒にとって約3年ぶりの河北である。

 

河北に割拠するためには、

幽州の王浚が大きな障害となる。

王浚を抑えないと、河北には割拠できない。

 

そのため、

襄国に本拠を置く。

背後に当たる南の鄴は石虎に任せた。

石勒の石虎に対する信頼は絶大である。

 

●王浚の強さ

 

王浚は313年時点で既に幽州を10年維持していた。

八王の乱、永嘉の乱という歴史的大乱の中、

同一人物が統治した期間としては最も長い。

 

それだけに王浚統治の幽州は盤石な体制を築いていた。

 

さらに、

王浚は、戦争が強い。

常勝続きだった石勒は、

309年に冀州の飛龍山において王浚に敗戦している。

それで石勒は一旦冀州から黄河まで撤退したほどだった。

 

その強さの根源は、王浚が遼西の鮮卑段部を動かせるからである。

王浚は、娘を段部の大人・段務勿塵に嫁がせており、婚姻関係にあった。

 

鮮卑は半農半牧の民族である。

当然騎兵も多く、異民族流の戦いをして来る。

 

石勒の軽騎兵は段部相手では優位に働かない。

 

石勒の動きを察知した王浚は早くも鮮卑段部を動かして

石勒を攻撃する。

 

 ●王浚、石勒を攻撃。その結果段部が分裂。

 

・312年12月

王浚が鮮卑段部を使って石勒を攻撃。

襄国攻防戦。城壁等防御施設を修築中で、

戦いは困難を極めたが、なんとか守りきる。

戦いの中で、段部の段末波を捕虜とする。

段末波は、大人・段務勿塵の甥である。

彼を徹底的に厚遇し、懐柔した。

 

石勒は段末波と父子の契りを結ぶ。

異民族の流儀を熟知する石勒ならではの懐柔であろう。

 

これが楔となって、のちに生きる。

段末波が石勒派となり、段部は分裂。

王浚の思うがままには動かなくなる。

 

ここから石勒が策に長じるようになる。

張賓の進言である。

 

段末波を解放し、段部と停戦。

 

段部は王浚に言われて攻め込んでいるだけで、

石勒を滅ぼす必要性がない。


段部が撤退した後、

襄国の北東にある信都郡を攻撃。

冀州の州治でもある。攻略し、冀州刺史王象を殺害。二人目。

 

・313年4月

石虎、鄴城三台攻略。

鄴地域の確保。石勒支配領域の南端が固まる。後顧の憂いがなくなった。

石勒、太学設置。軍事にしか関心のなかった石勒が、

統治政策を行い始める。

 

 

・313年5月

王浚傘下にいた烏丸の一部族が石勒に帰順。

王浚を見限ったという。

 

王浚があまり積極的に対外政策を行わなくなり、

烏丸が略奪をできなくなったためと思われる。

 

この当時の状況だが、

313年1月に西晋皇帝懐帝が劉聡により処刑されている

同年4月に長安で愍帝が即位するが、その正統性は疑問で、

また一部の西晋側の人間が支持したのみであった。

 

繰り返しになるが、

王浚は303年から10年、幽州を維持している。

これは西晋末期において驚異的なことである。

王浚が幽州で事実上自立していると

みられるのはやむを得なかった。

 

王浚は慢心していたとされるが、これは当てにならない。

石勒という異民族に打ち倒される、名族太原王氏の王浚は、

堕落していてもらわなくては困るのだろう。

 

王浚が事実上の幽州の王であることは間違いない。

 

●王浚弱体化、石勒は詰めの一手を指す。

 

ある程度弱体化してきた王浚。

 

石勒陣営はそこを力押しせず、

張賓は王浚を油断させることを提言。

石勒はその策を執り、調略を開始する。

 

石勒は王浚に媚びた。

王浚に皇帝即位を進めたり、

王浚から石勒に離反してきた者を処刑して、送り返すなど、

石勒は王浚に取り入った。

 

王浚はこれを好ましく思う。

太原王氏で、父は王沈という名門の血筋なのに、

王浚がこれを好むのは少し時代とそぐわない。

 

だが、王浚が王沈の子とは言え、彼は庶出の子、

というより私生児であるということはお伝えしておきたい。

 

孝道で有名な、西晋建国の元勲、録尚書事の王沈は、

最後まで王浚を認知しなかった。

このパターンだと、王浚は父と逆の道を行こうとするものである。

 

314年2月

石勒は王浚討伐を決意するも、

まだ打ち手が不完全と判断。張賓の判断だろう。

熟柿が落ちるのを待つが如く、

王浚征伐が鉄板になるまで、機を待つ。

 

まだ、

王浚との盟友関係にある鮮卑、烏丸、

および幷州の劉琨の動きが気にかかる状況であった。

 

劉琨は幷州刺史、都督幷州諸軍事で西晋の大将軍であった。

かつ劉琨は代の鮮卑拓跋氏と盟友関係にあり、

その動向を石勒は見過ごすことはできなかった。

 

まず石勒は劉琨と王浚の関係を割く。

劉琨は西晋の絶対天下を崇拝しており、

王浚の独自の行動を元々苦々しく思っていたので、この策略は容易く進んだ。

 

この型にはまった劉琨の判断がまさに漢人教養人である。

 

鮮卑、烏丸に関しては、動く前に、電撃戦で勝敗を決することを

決めて、隠密裏に石勒は出兵。

石勒得意の奇襲である。

 

・314年3月

石勒は易水まで進軍。易水が冀州と幽州の境である。

 

王浚はこの石勒の進軍を敵対行動とみなさなかった。

王浚は反対に石勒をもてなそうと酒宴の準備に取り掛かる。

范陽をいとも簡単に通過。

范陽は魏文帝曹丕の時に改称され、その前は涿郡である。

涿県が劉備の出身地である。

戦国時代にはすぐ東の易県に燕の下都があり、

燕の前線基地があった。ここを通らないと幽州中心部に進めない。

 

幽州の州治・薊にまで易々と石勒は至る。

門は閉まっていたが開門させ、

牛羊数千頭を駆け込ませ、混乱させる。

 

牛羊で街道が埋まってしまったので、

王浚側が防御態勢を取ろうとしても兵が展開できなくなってしまうのである。

 

ここでようやく王浚は石勒に疑念を抱いた。

逆に言うとここまで疑ってこなかった。

石勒を異民族して見下していたか、

それとも既に自身の傘下に入っていたと思っていたのか。

 

石勒は電光石火、王浚を捕獲。

襄国に送り、処刑する。

 

戦勝報告を劉聡にする。

命令違反で襄国に入るも、

劉聡とのラインを断たないあたりが巧妙である。

 

劉聡にとっても敵であった王浚を打倒して幽州を獲得したのだから、

その戦勝報告を受け取らないわけにもいかない。

 

これで、

鄴から襄国、冀州西部、幽州西部を石勒は獲得した。