歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

⑦石勒の中華戦記 314年3月幽州攻略〜316年12月并州攻略まで

「 ②襄国を拠点に華北割拠、華北統一へ。群雄の一人」

という時期の続きである。

 

 

中華全域の勢力状況は下記である。 

 

 

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314年初頭勢力図。青=西晋 赤=匈奴漢 緑=第三勢力

 


●石勒、314年4月の情勢。幽州不安定、青州曹嶷の離反、襄国飢饉。

 

 

314年3月に王浚を滅ぼす。

しかし、西晋派の段部の動き、

漢人の裏切りによる幽州州治・薊であるなど、

幽州の支配を確保できたわけではなかった。

段部が幽州を握り、後に劉琨が逃亡してくるので、

劉琨がトップとなる。

 

また、青州(古の斉)の曹嶷が匈奴漢から離反傾向を見せる。

曹嶷は石勒が暗殺した王弥の左長史、

すなわち筆頭代官であった。

 

王弥は大将軍であり、開府ができる。

開府には属官が所属する。

長史はそのトップである。

 

諸葛亮は丞相府を開府したが、

曹嶷は諸葛亮にとっての楊儀と同じポジションである。

 

のちに曹嶷は西晋、東晋につくので、

上記地図ではこの段階で青色とした。

漢人が異民族に従い続けるというのは

余程しんどいことなのだろう。

 

曹嶷は青州から魯方面に勢力を持っており、

10万の兵を動かせると言われる。

石勒にとって大きな脅威である。

 

さらに、石勒にとって悪いことに、

襄国を飢饉が襲う。

一年半無理をして、王浚を攻撃した結果か。

戦闘行為が増え、民の徴兵を頻発すると、

農地が荒れる。

荒れると農作物の収穫が不安定になり、

飢饉が起きる。

 

石勒は飢饉が起きない限り、戦い続ける。

歴史上は英雄だが、民にとっては苛烈な王である。

 

これで石勒は内政に専念することを余儀なくされる。

1年足止めを食った。

 

石勒はこの後も度々飢饉に見舞われる。

 

 

●315年白馬津の南岸を押さえて領域の安定を図る。

 

 

・315年7月

満を持して、兗州の濮陽に侵攻。

曹嶷の征伐は、劉聡が許さなかった。

黄河南岸に進出する。

 

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文石津、

棘津、

白馬津、

滑、

枋頭(後に桓温が慕容垂に敗北した)、

黎陽(石勒は北方で大敗するとここまで下がる)など

色々な地名があるが、

大雑把に見ると、黄河渡河地点である。

白馬の名前からもわかるように、曹操、袁紹の時代からの

歴史的な黄河渡河地点で、交通の要衝である。

 

ここが南北の移動を司っていた。

今まで石勒はこの北を中心に転戦してきたが、

この渡河点の南北岸を掌握することで、領域の安定化を図った。

 

しかし、背後の冀州中山を劉琨が牽制攻撃してくる。

自重し、まずは南から押さえにかかった。

 

 

●石勒、事実上の河北の覇者となる。

 

・315年9月

劉聡より石勒は征伐の自由を得る。

これは仮節鉞のことで、

軍事行動の自由、これは生殺与奪の権に裏付けされる。

これがないと、人は言うことを聞かない。

また石勒は封侯権・任官権を得た。

列侯、刺史・将軍・郡県長に至るまでを任じる権限を得る。

 

312年の葛陂撤退という命令違反から、

襄国に拠り、王浚を滅ぼすまでの行為が、事実上匈奴漢から追認されたことになった。

 

匈奴漢本国は、洛陽の陥落からは停滞していた。

長安の攻防戦が一進一退だったためである。

315年の8月に劉曜が盟津

(洛陽北の黄河渡河地点。周武王の会盟で有名な場所)

を南に渡って、河南エリアを攻撃。その後、長安へ向かうも、

落とせず。

 

劉聡はこれ以上石勒を放置することを恐れたのだろう。

 

・316年4月

廩丘(定陶のある済陰郡にある。兗州州治である。)攻撃。

ここには劉演という、

西晋大将軍で都督并州諸軍事の劉琨の甥、

劉演がいた。兄劉輿の子である。

兗州の掌握により、石勒の本拠の安定化が実現する。

 

劉演は幽州の鮮卑段部に逃げる。

弟の劉啓は石勒が捕らえるも、

劉琨の恩義から田宅を与え、襄国に置く。

 

劉琨の恩義とは、

葛陂にて、劉琨が

母の王氏と石虎を返してくれたことである。

 

 

316年の夏、蝗害が発生。

冀州の中山国、常山郡の被害が最も大きかった。

これにより、中山にいた

丁零(これもチュルクが語源。バイカル湖の南あたりが故郷)が

反乱を起こすも鎮圧。

 

相当に厳しい蝗害だったようで、

夏には人口の半分死ぬ。

石越に指示し并州に兵を出し、流民を慰撫、20万人を連れ帰る。

 

石勒は、劉聡から譴責されるも無視。

并州の何処かはわからないが、多分に上党ではないか。

 

 

●劉聡は、太行山脈の東は石勒、西は劉曜と戦域を分けていた。

 

 

この流民に関して、

劉聡が石勒を叱責することで分かるのが、

実は匈奴漢は戦域を分けていることがわかる。

 

上記では、

315年8月に劉曜が盟津から河南周辺、その後西に転身して長安を攻めている。

同時期、石勒は兗州濮陽を攻撃中だが、

同じ方面に行くわけではない。

 

太行山脈の南北の線で、

戦域を分けている。

 

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一方で、

青州の曹嶷と誼を結ぶ。

味方なら誼を結ぶ必要もない。

すでに曹嶷は匈奴漢からは離反していた。

 

 

●石勒の并州劉琨攻略

 

・316年11月

劉琨攻略を開始。

并州の楽平国を攻める。

劉琨の力の源泉は、鮮卑拓跋氏の後援にあった。

しかし、316年3月に

代王で鮮卑大単于の拓跋猗盧が

長子拓跋六脩に殺害されるという事件が起きる。

これにより、鮮卑拓跋氏は大乱となり、

劉琨の支援どころではなくなった。

 

このチャンスに石勒は并州に出兵した。

 

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 劉琨軍は10万の兵を差し向ける。

それでも劉琨がこれだけの軍勢を動かせたのは、

鮮卑の内紛により、箕澹が劉琨に帰順したためである。

 

劉琨自身も広牧まで進軍。

 

石勒は敵勢の疲労、急造の寄せ集めの集団であると判断。

石勒自身が軽騎兵を従え、攻撃、

すぐに撤退、埋伏させていた自軍の伏兵攻撃で箕澹を大破。

 

その後追撃し、代まで追いかけ、箕澹を殺害する。

 

・316年12月

劉琨の長史李弘、石勒に裏切り。

石勒に并州を明け渡す。

劉琨、幽州の鮮卑段部に逃げ込む。

 

これで并州は石勒のものとなった。