歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

⑨石勒の中華戦記 317年6月〜318年末まで 劉聡崩御。靳準反乱。劉曜、皇帝へ。

石勒は、

強大な幽州の王浚・段部の連合を時間をかけて、

ようやく打倒する目処をつけた。

 

一方で南方は、東晋の反攻はないかと思っていたら、

祖逖という骨のある人物が乗り出して来る。

 

正面からあたることは避け、

豫州に鎮する祖逖は後回しとした。

 

そうした中、

匈奴漢で政変が起きる。

 

この結果、

華北は劉曜と石勒の二強対決となった。

 

石勒はこれまでも事実上の独立勢力だったが、

これを機に名実共に自立する。  

 

 

●318年7月劉聡崩御、靳準の反乱

 

 

 

・318年7月

匈奴漢皇帝劉聡、重篤。

石勒に大将軍、録尚書事に任じる使者来るも、

石勒は固辞。

これは、魏末の司馬氏と同等のポジション。

そして、劉聡崩御。


・318年8月

弱肉強食という異民族の流儀においては、

後継者争いというのは宿命である。

 

外戚の大将軍靳準反乱。

劉聡を継いだ、劉粲を殺害。

劉氏の大虐殺、劉淵、劉聡の陵墓を掘り起こし、遺体を辱める。

宗廟を焼き払う。

 

 

 

 

靳準、漢天王、大将軍となる。靳準は匈奴屠各種。

彼にして、

「古来胡人が天子になったものはいない」と言わせている。

どれほどの漢人優先主義がこの時代を蓋っていたかがわかる。

異民族が皇帝になることは異民族にとってもタブーなのである。

 

伝国の璽を東晋に返還しようとするほどである。

側近に止められて実現せず。

 

これに対して、

石勒、精鋭5万で襄国から進軍。

襄陵(平陽の東)の北原まで進軍。

靳準は石勒を攻撃するも石勒は守りを固める。

靳準は撤退。石勒は推移を見守る。

巴族、羌族、羯族が石勒に帰順。

劉曜も長安から蒲坂まで進軍。

 

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地図を見れば分かるように、初動は劉曜よりも石勒の方が早かった。

 

 

●318年10月劉曜、皇帝僭称  劉曜と石勒、空中戦

 

・318年10月

劉曜が蒲坂で皇帝に即位。

石勒、大司馬、大将軍、

趙公、九錫、封郡10郡を加増して13郡となる。

しかし、劉曜と石勒の足並みは当然揃わない。

劉曜に認められるまでもなく、

とうの昔に事実上の河北の覇者石勒である。

劉曜の下風に甘んじるわけがない。

 

ここから、劉曜と石勒は直接対決はしないまでも、

間接的に火花を散らす。両者の空中戦が始まる。

・318年11月

窮した靳準は石勒に

乗輿(天子の乗り物)や御服(天子・貴人の衣服)を贈って、

和を請うが、石勒は拒否。

これは、

石勒に対して、皇帝になれ、私は臣従するということを

言っているのに等しい。

ここを断る石勒の判断が巧みである。

劉曜のように皇帝を称するのは、非常に問題がある。

 

●中華皇帝とは

 

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皇帝は万物の頂点である。

唯一人であり、

他の勢力は臣下にならなければ原則全て敵となる。

また、皇帝は前代の皇帝を継ぐ、

すなわち天命を継ぐという

スタイルを取る必要がある。

そうでないと、僭称になってしまうのだ。

天命を受けていないのに皇帝と称している。

虚偽であると。

 

皇帝位につくには、綿密なストーリーが必要で、

実力主義で勝ち得る単于位とは違うのだ。

 

この辺りの背景を、

石勒は知っていて、

劉曜は知らなかった。

僭称はうまくいった試しが、この当時にはないのである。

劉邦や劉秀、曹操のように最後まで粘りに粘って、

ようやっと皇帝になるか、子供に引き継ぐか、ぐらいをしないと

いけないのが、皇帝というものである。

 

 

 

劉曜は靳準に降伏を勧める。

しかし、靳準は劉氏一族の大半を殺しているのでためらう。


・318年12月

靳準は味方の裏切りで殺される。

靳明を後継にする。

靳明一党は劉曜に伝国の璽を贈り降伏。

石勒は靳準の勢力を取り込むことを狙っていたので、

劉曜に出し抜かれたことを激怒。

石勒は独自に使者を、

靳準を殺したの子靳明に使者を出し、

靳準を殺したことを譴責するも、

その使者が殺される。

(石勒は靳明を怒らせて、

使者を殺させた。それは戦端を開くためである。)

戦端を開き、靳明の籠る平陽城を石虎に攻撃させる。

石勒にとって劉曜に取り込まれる靳明は邪魔者でしかない。

 

靳明が平陽の民1万5000人とともに城を退去、

劉曜へ投降したのをみて、

石勒は攻撃を止める。

劉曜は自身に投降した靳明を許さず、族滅とする。

劉曜の判断は、異民族らしいが、

漢人には横暴にしか映らない。

支援していて、自身を頼ってきた窮鳥を劉曜は殺した。


石勒は平陽に入城。

石勒はこの時初めて、匈奴漢の都平陽に入った。

宮室は破壊、

劉淵・劉聡の陵墓は修復。

劉粲を丁重に葬る。

劉曜に戦勝報告。

一方で徐州の彭城が石勒に帰順。

 

・319年

劉曜は石勒を、

太宰、大将軍、趙王に任じる。

合わせて、九錫の付与をされた。

史上九人目である。

石勒は、王侯、執権、九錫の三つを手に入れたので、

禅譲を受けて皇帝になれる資格を得たことになる。

 

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入朝するときの儀礼は、

曹操が漢の補佐をしたときに準じるとした。

「剣履上殿」「入朝不趨」「謁讃不名」

である。

剣を帯びて靴を履いたまま昇殿してよい、

朝廷に来る時は小走りに走らなくてよい、

皇帝からの呼称は実名を避け、字で呼ぶ。

 

という特典である。

 

この辺りも、石勒が曹操を意識している事例の一つである。

 

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(実際には石勒は入朝をしていない。)

七郡加増、20郡となる。

実際は石勒が自分で取ったもの。

 

封侯される筋合いはないと石勒は思ったことだろう。

 

この時の、劉曜と石勒は、

新末後漢初の更始帝と蕭王劉秀の関係に似ている。

 

更始帝は長安にあり、劉秀は自力で河北を攻略して割拠していた。

更始帝は早々に皇帝になったが、

劉秀は自重していた。

両者のの勢力圏と称号が類似している。

 

更始帝は赤眉に殺され、劉秀と対決することはなかったが、

劉曜と石勒はこの後対立関係に入る。

 

319年初頭に、

石勒の左長史の王脩が劉曜に殺されることから、

石勒と劉曜の9年に渡る対立が始まる。