歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

祖逖に始まる北府軍

 

建康郊外に駐屯し、大きな軍権を握る北府軍。

常に東晋の政局に影響を与え、

最終的には北府軍出身の劉裕が東晋皇帝からの禅譲を実現させる。

 

政治的局面での存在感が強い、北府軍であるが、

その原点は祖逖の北征への純粋な思いが由来であった。

 

祖逖の事績から、北府軍の成立までを辿る。

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●祖逖の名前

 

逖の意味。それは「くたばれ、異民族」である。

 

隋の楊堅は元々随公だったが、
皇帝に即位するにあたり、国号を変えたという話がある。
一説には俗説とも言われるが、
国号を変えた理由に注目したい。

「随」にはしんにょうが入っていて、
それは流れる、走るという意味が入っているから、
「隋」に変えたという話だ。
つまり、早くに王朝が滅びてしまうという懸念からである。

祖逖。
この「逖」という見慣れない漢字を見てほしい。
狄にしんにょうである。狄はつまり異民族のことである。
逖の意味は、
狄、異民族が走る、滅びるという意味である。
一文字単位で見ると、遠ざける、という意味である。

266年の生まれなので、
成年時、古礼による加冠時の20歳の時には、
異民族はまだ跳梁跋扈していない。

何か生い立ちに関連するのか。
それとも、途中で加盟したのか。
いずれにせよ、この祖逖という人物の、決意が
見て取れる、名前である。

 

●北伐義勇軍を形成する祖逖


祖逖は西晋末における塢主(うぬし)の代表的人物である。
塢とは小規模な城塞のことを指す。
これは西晋末に初めて生まれたのではなく、王莽末期の乱世が発祥である。

 

祖逖は劉琨と同じ幽州は范陽の出身で、
彼は数百家を率いて南下した。
八王の乱、永嘉の乱を経て、江南に難を逃れたのは、
当然、宗族・貴族だけではなく、こうした漢人豪族も多々いた。

 

祖逖のような人物は他にも多々いたようで、

出身地のリーダーとして、他家を相当な人数連れて、江南に逃げてきた。

小規模な城塞を作って、江南に暮らしたので、

塢主と呼ばれる。

 

祖逖は一旦江南に難を逃れた後、

司馬睿に北征実行の請願をする。

司馬睿より、豫州刺史に任じられる。

豫州刺史とは豫州の行政長官である。


豫州は石勒の支配下だったので、

祖逖に対して豫州回復の命令が下されたことと

同義である。

 

祖逖は自ら募兵し、自ら武器を鋳造する。

西晋、東晋から領地を与えられていない中、

祖逖は私財を投入してこれらを行う。

歴史上は祖逖らを塢主というが、

このように私財を投入している時点で、

事実上の北伐義勇軍である。

 

この北伐義勇軍の士気は非常に戦った。

江南に逃れた人たちの北帰への願いは相当なものだったのだろう。

 

 

祖逖自身の北征に対する決意は、

「祖逖之誓」という四字熟語に残されているほどである。

成果をあげなければ絶対に帰らないという意味である。

 

なお、祖逖のこの北征は、東晋に強い印象を残す。

桓温は祖逖の志を継ぐことで、最高権力者への道を辿る。

 

祖逖は北征し、他の塢主の李矩や郭黙を指揮下に収めて、
一旦は黄河以南を回復する。

 

祖逖の強さは相当なもので、

鄴から出陣してきた勇将石虎を見事撃退している。

勇将石虎が戦いに負けたのは、他には、洛陽決戦の時の劉曜だけだ。

 


しかし、東晋元帝司馬睿は、

さらなる北征推進よりも、国内事情を優先する。

 

当時荊州方面で力をつけていた王敦に対抗するため、

南人の戴若思を六州都督諸軍事にして、

祖逖もその傘下に入れてしまった。

 

祖逖は豫州刺史であり、

回復した豫州において、軍事を掌握していた。

だが、これで戴若思に一々伺いを立てないと

動けないことになった。

 

これは最前線の司令官としては、

非常に煩雑なことで、機動性が著しく失われる。

 

祖逖は暗澹な思いを抱いた。

 

内輪揉めをして北征を後回しにする、東晋を憂いたまま、

祖逖は321年に病死する。

 

●祖逖の遺志が北府軍を創った

 

豫州で大きな勢力を持っていた、

祖逖の軍団は弟祖約が継承する。


しかし河北をまとめて攻勢に出てきた

石勒の勢いを止められず、

淮河線まで撤退する。


この時祖約を始め、

他の塢主、蘇峻、郗鑒が南へ撤退した。

彼らはこの後起きる王敦の乱(322年ー324年)に投入される。

王敦の乱を鎮圧した後、外戚の庾亮が蘇峻を危険視して、

蘇峻の軍勢から引き離そうとした。

それに反発した蘇峻が起こしたのが蘇峻の乱である。

蘇峻の乱を実働で鎮圧したのは、

郗鑒(ちかん)と陶侃であった。

 

塢主出身として、

唯一残った郗鑒が、

初めは建康から見て、長江対岸の広陵、

その後長江の建康側の京口に、

自身の軍勢を定住させる。屯田である。

これが北府軍となる。

陶侃の西府軍と並んで、東晋の軍事を握った。

 

 

北府軍はこのような経緯を辿り、

成立する。

 

その元々のきっかけは、

祖逖による豫州侵攻であった。

 

これにより、各塢主が北へ反攻。

その志は東晋国内事情に足を引っ張られ、叶わなかった。

 

彼らの生き残り、それが北府軍である。

 

祖逖の英雄的行為は民心を掌握した。

そのため北伐は政治案件ともなった。

東晋はこれ以後、北伐が政局となるのである。

 

これをするかしないか、成果が上がるかどうか、

それが東晋の権柄を握る条件の一つとなる。