歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

⑫石勒の中華戦記 石勒、劉曜を滅ぼし、曹操の最大版図に並び立つ。

河北の完全制覇により、

他国に対して圧倒的有利に立った石勒。

劉趙(前趙)や東晋、成漢は劣勢に立たされた。

 

 

石勒は劉曜との洛陽決戦に勝ち切る。

東晋の寿春、襄陽を攻略。

 

曹操と同じ版図を達成するところで、石勒は命が潰える。

蜀を得て、水軍を作り、東晋を攻めれば、

司馬炎の280年討呉征伐の再来であった。

 

 ●「時」を握る石勒。後継を考え始める。

 

・325年6月

司隷攻略を受けて、

洛陽から日時計を襄国に移す。

その国の標準時間は首都に従うというものである。

現代の中華人民共和国は北京時間に合わせているのは、

このあたりの政治的な要素に配慮している。

(日本は真ん中の明石)

時計を握るというのは、時を支配するということで皇帝の正統性の一つである。
(元号と同じ)

 

・326年4月

石生、汝南へ侵攻。

 

・326年10月
石勒、鄴に宮殿を造営を計画。

世子の石弘に鄴を任せることを考える。

しかし、鄴は創業以来石虎の管轄下である。

輔政の程遐に諮る。

少々強引に、石虎を排除して、石弘に譲らせる。

石虎、程遐を恨む。


・326年11月

石聡、寿春に攻め込む。

祖約は東晋に援軍要請するも、東晋動かず。

王導を江寧に派遣して備える。

蘇峻配下が攻撃すると、石聡は撤退。

 

・326年12月

東晋の下邳が石勒に寝返る。

 

・327年12月

石虎に代を攻撃させる。

拓跋部は前線を後退させる。

※327年時点での勢力図。

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「中国歴史地図集」引用。

・328年1月

元号を定める。太和とする。

それまでは趙王〇年であった。

これは、前漢武帝以前の、年の数え方であった。


・328年4月

南陽の攻略。太守王国が降伏。

 

●寿春攻略 東晋を長江以南へ押し込む


・328年6月
石聡、寿春を攻める。


・328年7月
寿春を陥落させる。

 

●劉曜との洛陽決戦

 

・328年7月

石勒、劉曜攻め。

石虎に前趙の河東を攻めさせる。

早々に石虎は蒲坂を囲むも、

劉曜自ら救援。

石虎は撤退。

劉曜追撃。

 

・328年8月

高侯で劉曜は石虎に追いつく。

石虎軍壊滅。(石虎、初めての敗北か。)

石虎はかろうじて朝歌に逃げ込む。

そのまま劉曜は洛陽の石生を攻撃。

千金堤を決壊させ、水攻め。

滎陽と野王が劉曜に降伏。

滎陽は黄河の重要な渡河地点、

野王は河内・上党間をつなぐルート上にある。

両都市とも河内の重要拠点であった。

司隷が劉曜に奪われる危機。

 

・328年11月

石勒は親征による洛陽救援を決意するも、

程遐は反対。

石勒激怒し、程遐を獄に入れる。

徐光を赦免。徐光は石勒親征に賛成。

仏図澄も賛成。

石虎が敗れた今、石勒が親征するほか選択肢はなかった。

 

・328年12月

石勒10万の軍勢を持って、成皐関を攻撃。

劉曜は石勒の動きを知ると、

洛陽から西に離れて布陣。

石勒は洛陽城内に入城。

その後、劉曜を攻撃。

石勒は甲冑を着け、

石勒、劉曜と洛陽西郊にて会戦。

石勒軍は劉曜を捕縛する。

石勒は劉曜を襄国に送り、処刑。

 

●長安攻略と劉趙(前趙)の完全滅亡


・329年1月

歴陽で祖約を破る。
祖約はこれで石勒の下に亡命する。

 

前趙皇太子の劉煕は劉曜が捕縛されたのを知ると、

長安を去り、上邽(天水)に逃げ込む。

石勒は石虎に長安を攻めさせる。

石生も長安へ行かせる。

 

・329年8月

前趙の皇族劉胤が長安を攻撃すべく、動く。

 

・329年9月

石虎軍と劉胤軍が義渠にて激突。

石虎が勝利し、勝ちに乗じて追撃、

そのまま上邽を攻略する。

ここに前趙は滅びる。

石虎、河西に侵攻。

関中と隴の確保。

前涼は後趙に貢物を贈る。

氐の蒲洪、羌の姚弋仲が石勒に降伏。

それぞれ、後の前秦、後秦の祖である。

 

・330年2月

群臣からの皇帝即位の嘆願。

石勒は再三固辞。

やむを得ず、趙天王となる。

天王とは周王と同じで、天子ではある。

だが、皇帝ではない。

ここでも「異民族は皇帝にはなれない」に配慮。

祖約はここで処刑。石勒に忠を尽くさなかったためである。


・330年6月

前涼張駿が狄道まで前進。

後趙は張駿を任官しようとするも、張駿は拒否。

後趙の使者は拘留する。

・330年9月

群臣再三の嘆願が再度あり、

石勒は皇帝に即位する。

襄国から鄴に遷都する。

石弘を皇太子にする。

石弘は温厚。将来の後継を見据えて、

石虎が警戒される。

 

●襄陽攻略


・330年9月

郭敬、襄陽攻撃。

襄陽城を壊し、漢水の北に民を連れ去る。

樊城を固める。

襄陽と樊城を押さえることは、

その両都市の間に流れる漢水の流路を押さえたことになる。

 

ここを押さえたことは、

荊州攻略への大きな足がかりを掴んだことになるとともに、

洛陽など司隷方面が安全圏になることを指す。

漢水沿いで守りを固めることができるためで、

襄陽の攻略は大きな意味を持つ。

後趙は長くは持ちこたえることはできなかったが。

 

この段階で、石勒は

曹操の最大版図と同じ領域を掌握することとなる。

東晋が三国呉、成漢が三国蜀漢と同様の領域を持つ。

再度の三国時代となる。

この段階で、例えば徐光は、

石勒が中華の正統な君主という

見方を示す。

東晋、成漢などは枝葉だということを三国時代を
たとえに出して献言、これらも含めて、

皇帝即位を石勒はとうとう決断した。

 

・331年

婁県を攻撃するも、

東晋の郗鑒(ちかん)により撃退する。

蜀の梓潼・建平・漢固の三郡の巴族が石勒に帰順。

石勒は将来の遷都を見据えて、洛陽を南都とする。

石勒は後顧の憂いを断つために、

石虎の排除に関する進言を受けるも、受け入れない。

 

とはいえ、
一方で石虎を軍事で使えなくなったため、

後趙の攻略スピードは落ちた。

 

・332年7月

郭敬は南下して攻撃するも、

逆に東晋の陶侃に撃退され、新野まで攻め込まれ、

陥落させられる。
郭敬は撤退。

 

・333年1月

成漢の李雄と修好を求めるも、拒否される。

・333年5月

石勒、病状悪化。

・333年7月

石勒崩御。