歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

石勒を継ぐ者、慕容恪

慕容恪。

 

父を助けて、慕容部の勃興を助ける。

兄を助けて、前燕帝国の成立を実現する。

そして、華北エリアの大部分を攻め取る。

西は、前秦苻堅を関中に押し込み、陝県(三門峡)を境とし、

南は淮河までを領域とした。

 

これらを実現したのは、

前燕慕容部の事実上の建国者、慕容格である。

 

 

4世紀後半の人物である。石虎の後に登場する。

 

慕容格は石勒を継ぐものである。

胡漢融合を成し遂げ、一代で華北の覇者となった。

 

そんな慕容格の実像に迫る。

 

 

●慕容恪は異民族と漢人のハーフである。

 

慕容恪の母は高氏である。

慕容恪は母に疎んじられていた。

慕容恪は父からもあまり顧みられていなかった。

 

ここから推察されるのは、
母は奴隷として、つまり妾として父に捧げられた、というわけである。

慕容部が戦いの際に捕らえた漢人の女だったのだろう。

鹵獲品としての女性である。

 

婚姻ではないのである。

単なる娼婦である。

 

だから慕容恪は庶出の子どころか、

父のきまぐれでその辺に打ち捨てられてもおかしくない、

そのような生まれであった。

 

しかし母に名字があるからには

それなりの家なのだろう。

 

それに高氏と言えば、遼東の側に、渤海高氏という名族もある。

後漢に始まる、由緒ある名族だ。

後に北斉の皇室高氏は鮮卑の出なのに、

自身を漢人の出自にしたくて、渤海高氏と無理やり称したほどだ。

 

この渤海高氏の出身の可能性もある。

 

いずれにせよ、姓があるのだから、

決してその辺の隷属民ではないと思われる。

 

だからこそ母に余計嫌われたのだろう。

 

慕容恪の出生にまつわる事情はこのように

悲惨なエピソードだった。

だが、慕容恪自身は、
異民族の王と、漢人士大夫の間の子であり、
しっかりとしたものだった。

慕容恪は異民族と漢人のハーフなのである。

 

彼は当然父の手元で育てられたが、
母の影を追った。

このパターンは母を憎むか、
母を追慕するかのどちらかである。

慕容恪は母を追慕する道を進んだ。
母のルーツ漢人の文化を知ろうとした。

 

●慕容恪は漢人の教養を持つ。


慕容恪は普通の異民族と異なる。

兵法に長じている。

攻めるときは攻め、守るときは守る。

攻め時でなければ、時間を待ち、

相手が手強ければ潔く撤退する。

 

桓温が攻め落として東晋の物になっていた、

洛陽を364年に攻めたときは今が攻め時と考え、

将兵を督戦、力押しの攻城戦を繰り広げる。

1ヶ月で見事陥落させる。

そのままの勢いで、洛陽から

西に進撃。

陜県(三門峡市)まで攻め込み、

苻堅と対峙したが、これ以上の深入りは

無用として撤退。

 

●礼節、謙譲、輔弼の慕容格

 

礼節を理解している。

謙譲の美徳を知っている。

輔弼の概念を持っている。

 

359年兄の皇帝慕容儁は病が篤くなると、

弟の慕容恪に後を継がせようとした。

この兄は、母は段部出身の鮮卑のプリンスで、皇帝となった

異民族丸出しの皇帝である。

 

創業半ばでは早々に皇帝を称したために、

外交上行き詰まるところ、慕容恪の巧みな用兵と国家運営で乗り切ってきた。

 

慕容儁の良いところは、

慕容恪ありきの自分自身の立場を理解しており、

慕容恪を敵視しなかったことだ。

 

人に任せ切れることこそプリンスの本懐である。

 

そして、前燕皇帝慕容儁は、今際の際に異民族らしく考えた。

自身が死んだら、確実に最高権力者は弟慕容恪だ。

慕容恪は自分の後を継いだ皇帝を排除するだろう。

 

異民族は弱肉強食の世界だ。

兄弟など関係がないのだ。

 

慕容恪には敵わない。

 

慕容儁自身だって、使いこなすことはできても、

一対一では敵わないのである。

 

それぐらいなら、

慕容恪に後を継がせよう。

 

そうして自分の可愛い身内を助けてもらおう。

 

そう考えて、前燕皇帝慕容儁は慕容恪を呼び、

皇位を継ぐよう要請した。

 

これは劉備の諸葛亮に対する全権移譲のような美談ではない。

慕容儁のバックグラウンドが違う。

 

 

だからこそ、慕容恪が謙譲して辞退を申し出ると

慕容儁は怒るのである。

 

兄弟の間で何故着飾った言葉が必要か、と。

 

 

そのぐらい慕容儁にとっては切羽詰まった状況なのである。

 

しかし、

慕容恪がさらに言葉を重ねて、

皇帝になれ、その資格があると言うのなら、

輔弼をさせてほしいと言って、

慕容儁は初めて慕容恪に対して安心するのである。

 

 

慕容恪の礼節、謙譲、輔弼といった概念。

これらは全て異民族にはない文化である。
漢人しか持ち得ない。

 

慕容恪は最後まで漢人の心を持ち続けようとした。

 

 ●そして慕容恪は異民族の勇敢さも併せ持つ。

 

慕容恪は死ぬまで常に軍とともにあった。

自分自身が軍勢を率いるのである。

 

寡兵にて敵を打ち破った例も多かった。

あの石虎が当時の慕容部本拠棘城を囲み、攻めきれず、撤退。

その後、慕容恪は数千の兵で追撃。

万を超えると首級をあげたと言われている。

相手はあの石虎である。

 

慕容部の宿敵段部を壊滅させる。

宇文部の討滅も成功。

高句麗も屈服させる。

 

今まで何度となく慕容部の邪魔立てをしてきた周囲の勢力を全て、

打倒した。

 

さらに慕容恪は初動が異常に早い。

後趙が内紛で崩壊、冉閔が後を継ぐと、すぐ幽州に進撃。

范陽、薊と幽州の重要拠点を瞬く間に奪ってしまう。

 

その後2年かけて冉魏と戦う。

最後は勇猛な冉閔を相手に苦戦はするも、

策略で捕獲。あっという間に慕容部は華北を手に入れてしまう。

 

この後すぐに兄慕容儁が皇帝に即位してしまうので、

絶え間ない戦争を続けなくてはならなかったが、

慕容恪の統治は安定していて後世に称えられるほどだった。

 

 

慕容恪の教養、勇猛さは

彼が異民族と漢人のハーフだからこそだったと私は考えている。