歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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戦国七雄最弱は韓ではない。


戦国時代において、

韓は最弱国と言われる。

何故なら、秦が覇道を進める際に常に負け続けるのが韓だからである。

主に前3世紀(前200年代のこと)である。

先進地域にありながら、最弱国とされる韓。

それはこの時代の話であり、

戦国時代の七雄中最弱と言うのは、間違いである。

 

 

 

●韓が最弱に見える理由

 

韓が秦に袋叩きに遭うのは、

秦の昭襄王の時代からである。

 

昭襄王は、前306年に即位。

大雑把に言うと、前3世紀は秦が韓を一方的に攻める時代である。

特に范雎が前271年に登用され、彼が遠交近攻策を国是としてから、

秦は韓に集中砲火をする。秦からみて東の目の前にある国が韓だからである。

 

それは何故か。

実はその前の経緯が抜けている。

 

何故昭襄王から韓は袋叩きにされるようになったのか。

 

それは、前340年に魏が河東にある、

首都安邑から中原の大梁に遷都したためである。(前330年という説もある。)

 

秦の東の目の前、河東の地、

秦から見て、黄河の向こう側の戦力が減った。

時は魏の恵王の時代である。

先代の武侯の時代は、呉起がこの河東の西、西河にあって、

西から迫る秦の攻撃を跳ね返していた。

この西河というのは秦から見て、

黄河西岸である。(前漢以降は馮翊という)

 

●魏の呉起が韓の「盾」だった。

 呉起は、一人気を吐いて、西河の地で、

秦の圧力を跳ね返していた。

 

呉起は卓越した戦略家であるのは周知の事実である。

孫呉といわれ、

孫子と並び称される人物である。

しかし呉起は実はそれに留まらない。

孫子は、兵法家であり、将軍としての実績のみだ。

呉起は、将軍とともに統治にも優れていて、人心掌握も

巧みだった。

呉起の「吮疽之仁」(せんそのじん)のエピソードは
あまりにも有名だ。

史記呉起列伝からの引用である。

「呉起は陣中においては兵卒と同じものを食す。

同じところに寝る。将帥であるにもかかわらず、一兵卒と同じ環境で軍中を過ごした。

また兵士に傷が膿んでしまった者がいたら、呉起自身が膿を自分の

口で吸いだしてあげた。

 

あるときに呉起が兵士の膿を吸いだしていると、

その母が泣き出す。ほかの誰かが、呉将軍が

直接あそこまでしてくれているのに、何を泣き出す必要があるのか、と聞いたところ、

「あの子の父親も呉将軍に膿を吸っていただきました。

感激し、命も顧みず敵と戦い戦死しました。

あの子も父と同様同じことになると思い、嘆いていたのです」

 

身を屈して兵とともにあろうとした呉起のスタイルに兵卒たちは心服した。

そのため呉起の軍勢は圧倒的な強さを見せた。」


という話である。

 

この無敵の強さを誇った呉起は、度重なる秦の攻撃を跳ね返すどころか、

逆に攻めて城を取るほどだった。

 

しかし、呉起はその後国内の政争に敗れ、

楚に亡命する。

その後は、魏は凋落の一途を辿る。

 

・魏は東西から秦・斉の挟撃を受ける。


魏の恵王が、いち早く王を称してから、

周辺諸国から集中攻撃を受ける。

秦も魏の西河、河東の地を執拗に攻める。

前340年に秦の商鞅が西河の地を奪取。

前年の前341年には、魏は馬陵の戦い【魏の龐涓対斉の孫臏】で斉に大敗。
魏は東西で敗戦が続き、覇権を既に失っていた。


魏の都安邑は秦の攻撃を真正面に受ける形となってしまった。
秦の圧力に耐えられない魏は、

前340年(もしくは前330年)に安邑から大梁に遷都をするのである。

 

河東の安邑から、中原の大梁への遷都。
結局のところ、これは魏と秦の河東争奪戦に関して、
魏が敗北を認めたのと変わらなかった。

魏の保有する城地は、二つのエリアに分かれる。
西は安邑を中心とした河東、真ん中に韓と洛陽などの周王の城地を挟んで、
大梁を中心とした中原、の二つのエリアである。

 

この遷都はどう考えても、魏が軸足を変えると宣言したことに他ならない。

現実的に、中原エリアに首都を遷した魏は、河東への救援は遅くなる。


河東は秦の草刈り場になる。

 


●河東が秦の手に落ち、韓は秦の攻撃に晒された。

 


ここでようやく韓が登場する。

韓は魏の河東からの退嬰により、秦の圧力を受けることになってしまった。

今まで魏が秦の圧力を一身に受けていたが、
河東から首都を遷したことにより軸足が中原に移ったことは明確であった。

韓は魏の退嬰後、秦と戦うことになる。

 

・実は、魏が秦と戦っている間、韓は着々と力を付けていた。

 


韓は元々河東の平陽に首都を置いていた。
魏の安邑の北東にある。
韓の首都とは言え、韓にとっては、
領域の東端であった。
韓の領域は東に広がっていて、東の上党から、
更にその南、河内へと広がる。


魏は事実上晋の継承国であり、
韓魏趙の中では、魏が最も強国であった。
韓としては魏と協調するほかない。
もちろん、対立することもあるが、全面戦争は避けたい。

韓は、鄭に狙いを定めた。
河内から鄭を攻めるのである。

前375年に韓は鄭を滅ぼす。

魏が秦の攻撃に晒されている間に韓はうまく勢力を伸ばしていた。

韓はこの年鄭の首都、新鄭に遷都した。

秦の圧力のため、遷都したと言われるが、私は違うと考えている。

そもそも、韓の周りは魏と趙に囲まれている。
両者は、元々晋由来で、韓を含めて三晋と呼ばれている。

魏は敵に回したくない。
趙は、韓の祖先が、趙の祖先を助けた関係か、
戦った形跡が見られない。

韓にとって進出する方向は事実上鄭しかなかった。

肥沃な中原の国鄭を取ったおかげで韓は強国となる。
先進地域なので武器も良く、戦いも強い。

こののち秦は韓も攻め城地を奪われるが、

魏の河東事実上の撤退までは、
主に秦にやられていたのは魏であった。

この時点では、魏と韓は同程度の国力だったのではないか。

しかし、魏が安邑から大梁に遷都したために、韓は攻撃を受け始めた。

それは昭襄王の時代に強まるので、
我々の印象が深い。
そのため最弱と言われるが、決してそうではない。

それまでは一時期とは言え魏と肩を並べるほどの力はあったのである。