歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

ややこしい五胡十六国時代、南北朝時代は中華正統史観のせいである。

311年から589年までの時代を、

五胡十六国時代、南北朝時代と呼ぶ。

 

しかしこれは非常にややこしい。

 

 

特に北がややこしい。

そのプレイヤーが多いこともさることながら、

民族名と国家名称が連動せず、

混乱する。

 

途中から南北朝時代とは言うものの、

別段連動しているわけでもない。

 

なぜそのようなことになるのか。

 

●華北王朝が優勢の五胡十六国時代 

 

311年の西晋滅亡に伴い、

新しい時代が幕を開ける。

 

五胡十六国時代である。

 

しかし、この時代、

五胡という定義が確定しているわけではない。

十六国という定義もかくていしているわけではない。

いずれも数え方によっては、

五を超え、十六を超える時代である。

 

ざっくりと、たくさんの「胡」、つまり異民族が、

たくさんの国を作ったという理解が正しい。

 

何を五胡十六国とするのかは、学説上の定義である。

 

現代中国では、

東晋十六国という呼称の方が一般的だ。

 

318年の東晋成立から、

420年の劉宋の成立までと一つの時代とする。

 

晋という王朝の正統性にフォーカスすると、

このような言い方になる。

 

南にあろうと、

晋の正統は続いている。

華北は異民族が跋扈しているだけである。

 

それは時代が平和でも、

幽州や并州などは異民族の跳梁跋扈はあるわけなので、

ある意味正しいのであろう。

 

しかしこの正統史観がややこしい。

わかりにくい。

華北という中華文明のメインエリアを掌握しても、

メインではない北朝。

 

この考え方から、

南がメインのような書き方をするところが、

理解の妨げをする。

 

 

●ただの二朝並立、南北朝時代

 

歴史上の定義は、

439年の北魏太武帝による、華北統一を持って、

南北朝の始まりとする。

 

この時点で、

南朝はすでに東晋は滅び、

劉宋(南朝宋)が成立していた。

 

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※上記地図は449年。北魏、劉宋の南北朝。中国歴史地図集から引用。

 

ここから589年の隋の楊堅による中華統一まで、

南と北の王朝対立という枠組みは基本的に変わらない。

 

それで、南北朝時代と呼ぶが、

北魏の後は北朝が東西分裂したりで、

すっきりする言い方でもない。

 

南と北の二つの王朝の対立かと言えば、

そうでもない。

 

三国対立だったり、

厳密には四国対立の時期もある。

 

 さらにそもそも、

南北の状況は、南北朝と言う割には、

連動していない。

 

439年という南北朝時代の幕開けの年は、

南にとっては意味がない。

 

南にとって意味のある年号は、

420年の劉裕による劉宋の成立である。

 

265年以来中華の正統王朝であった晋が、

禅譲により滅びたのである。

 

劉裕の建国した劉宋は、

勇ましくも北伐を成功させ、

関中・洛陽を回復。

黄河以南のラインまで押し返すも、

メインの領域は、江南である。

 

晋の正統を継ぐので、

劉宋が中華の正統王朝なのだが、

少々これは無理がある。

そこで、華北を北魏が統一した段階で、

南北の王朝が並立するという意味で、

南北朝という名前になる。

 

私は、この南北朝時代も含めて五胡十六国時代で

いいと思うのだが、そうはならない。

 

●北は「索虜」、南は「島夷」

 

お互いがお互いに正統を主張し合う。

そういう時代になった。

お互いに蔑み合うともいう。

南朝は北朝を「索虜」と言う。

北方異民族の風習である、辮髪のことを指す。

平たく言えば、

あの辮髪野郎、と言うことである。

 

一方、北朝は南朝を「島夷」と呼ぶ。

島暮らしの異民族、と言うわけだ。

北朝から見れば、長江の南側が大きな島に見えるわけだ。

視点を変えるというのは本当に面白いものだなと思うのだが、

中華文明のメインエリア華北からすれば、

いつも長江という河にを挟んで、

出たり引っ込んだりしているわけである。

 

南京長江大橋などは、長さ4,5キロもある。

詳細な地図がない当時、あれは島だと言っても納得感がある。

 

華北からすれば、彼らをおとなしくさせるためには、

「島」に攻め込むようなものだった。

 

実際に湿地帯も多く、

東方の海とあまり変わらない。

 

 

 

このような時代になったわけだが、

基本的には両王朝は別個に道を歩む。

常にお互いがお互いに影響を与えているわけではないのだ。

 

日本の南北朝のように、お互いは少し遠目の血縁とかでもない。

 

南北朝時代という呼び名は、

非常に政治的であるということを伝えたい。

 

●南を正統にしたい、後世の王朝

 

北朝は異民族の王朝である。

これは後世の史家も認めるところである。

 

そのため、南側の王朝を正統にしたい。

これは晋書も資治通鑑も同じだ。

 

本来は南を主体に歴史を描きたいのである。

 

しかし、この時代の結論は、

異民族系の北朝を継ぐ隋の楊堅が勝利する。

 

軍事的には北朝の優勢が続く。

 

南朝主体の歴史を描くのはそもそも無理がある。

 

これで齟齬が生じる。

 

大体ににおいて、

東晋などは建康に逃れた時点で、

ただの亡命政権、地方政権に過ぎない。

 

それは、孫呉と同じ領域で、

力の程度は華北王朝にかなわないのは、

すぐにわかる。

 

元が、朱元璋により北に追いやられると、

北元と呼ぶが、その後の北元の行方を中華の歴史では問題にしない。

 

本来ならば、東晋、その後の王朝はサブなのである。

 

しかし、正統史観がややこしくしているのだ。