歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

五胡十六国時代・南北朝時代は石勒、苻堅、拓跋珪、宇文泰で理解する。

五胡十六国時代・南北朝時代。

 

特に北がややこしい。
そのプレイヤーが多いこともさることながら、
民族名と国家名称が連動せず、
混乱する。

 

そこに南を正統にしたいと言う、中華正統史観が

入ってくると、こんがらがってくるのがこの時代である。

 
結論、この278年間は、
石勒、苻堅、拓跋珪、宇文泰の四人を軸に、
南北の状況を理解するのが最もわかりやすい。

 

●4プレイヤーで説明する。

 

上記が私の結論だが、

そうは言っても
北朝ももちろんややこしい。
匈奴、鮮卑、羯、氐、羌と
異民族と一括りにされるものの、
文化が全く異なる部族が入れ替わり立ち替わり入ってくる。

こちらの理解も難しいのだ。

しかし、視点を変えるとわかりやすくなる。
このややこしさは、民族視点で考えるから、
訳が分からなくなる。

そうではなくて、
ここは人物ベースで良い。

この時代を作った四人の人物ベースで考えると、

クリアになる。

 

●石勒


劉淵、劉聡らの匈奴漢の陰に隠れがちだが、
西晋滅亡のきっかけを作り、その後の国家のあり方を
作ったのは石勒である。

石勒は自立した勢力を311年10月の時点で小さいながらも
創業している。
西晋滅亡の翌年でタイミングもよい。

この段階で、石勒勢力は、異民族と漢人の融合体である。
これが後々活きてきて、華北統一王朝を成立させる。

そのあり方は、
胡漢融合である。

石勒の定義では、
異民族と漢人の区別はないものとした。

これが北朝第一の、石勒時代である。

 

●苻堅

 

苻堅の特徴は、苻堅ら異民族が漢人になり切ろうとした
ところにある。

苻堅ら氐族は、
石勒に徙民政策により、
彼らの故地、関中、漢中方面から遠く、
河北へ移されていた。

他の異民族も同様で、
これにより河北は無秩序状態を引き起こす。

そのきっかけは、石虎の死だ。

後趙石虎の死により、
石勒が創始した胡漢融合王朝は終焉を迎える。

これにより異民族の流儀、弱肉強食による後継者争いで、
国家の紐帯が崩壊する。

様々な部族が流動する中で、
前燕と前秦の両雄が並び立つ。

前燕が優勢だったが、やはり内輪揉めで崩壊。
前秦が華北を統一する。

苻堅の考え方は、
異民族らしからぬ徳治主義である。
苻堅自身が徳を収めれば、
異民族の虎狼たちも、従順に従うだろう。
その考え方である。

姚氏、慕容氏をその考え方で内包する。

また、血筋も意識しない。
丞相王猛は寒人の出で、
苻堅は一切そのようなことは構わない。

苻堅は確実に仕えやすい王者であった。

しかし、
東晋にも大きな影響を与えた、
373年淝水の戦いで
全てが崩壊する。

苻堅に対する従属は表面的なものであった。

苻堅に従っていた異民族にとって、
徳治政治などは分からないのである。

なぜ苻堅に従っていたのか、
それは結局力の論理であった。

淝水の戦いは、
淮河線で起きる。

ここから先は騎馬が使えない。

文化、文明の境目と言える。

ここを見て、
緩い紐帯で結びついていた前秦が崩壊した。

東晋の謀略でも、何でもない。

文明の境目を突破するほどの結び付きは
前秦にはなかった。

 

●太武帝 拓跋珪

 

北魏の太武帝拓跋珪は、華北の覇者を狙っていた
後燕の野望を挫き、事実上華北を制覇した人物である。

その戦いを参合陂の戦い(395年)と呼ぶ。

翌年には参合陂には病気で親征できなかった、
後燕の慕容垂が拓跋珪を攻撃。
戦いには勝ったのに、
その帰路、慕容垂は崩御。
後燕はこれを機に後継者争いが起き、
崩壊する。
戦いには勝ったのに、
戦略上は負けたという興味深い戦いだ。

太武帝、鮮卑拓跋氏の流儀は、
力である。

力で華北を制覇する。

本来ならばそれでは漢人を支配し得ない。

しかし彼らには二つの利点があった。

漢人との付き合いが長いこと、
鮮卑は半牧半農であることだ。

これが華北支配を確立するのに
貢献した。

力で押し切る鮮卑拓跋氏北魏は、
そこに石勒、苻堅以来の胡漢融合の歴史を取り入れ、
華北をまとめ切る。

しかし、孝文帝の急速な漢化政策は、苻堅と
同じく、身内の反発を招く。
彼ら異民族は、孝文帝のやり方も苻堅のやり方も
分からなかった。

 

●宇文泰

 

宇文泰は北魏の急進的な漢化政策に反発して
乱を起こした人物である。

結果として東西分裂するのだが、
宇文泰が国家作りに際して、
参考にしたのは周礼であった。

これに基づき、
復古的な王朝を目指した。

しかし、これは逆説的である。
周礼は当然中華の書物、礼制である。

これを前提に、異民族の宇文泰が
こっかを作る。
この時点で、異民族の漢化が相当に進んでいる。

そして、
これなら異民族たちも納得したのだ。
漢人文化に馴染みつつある証拠である。
宇文泰は、
北魏の漢化政策に
反発して立ち上がったものたちだが、
既に漢人の文化なくしては
国家統治を考えなくなった証である。

宇文泰は府兵制を作る。
八柱国、十六将軍という官職を軸に、
国家の組織づくりを行う。

この組織作りが既に漢人の文化である。

名前だけで、もう異民族の風潮はない。
漢人の文化に染まっているのである。

しかし、異民族としての、
プライドからか、
名称等で民族の由来を保つ。


異民族的要素を残すということは、
その本質、弱肉強食という要素を残すことになる。

力の要素を残した、宇文泰の建てた北周は、
結局力の争いで滅びた。

 

●楊堅、胡漢融合の集大成

 

石勒、苻堅、拓跋珪、宇文泰の4プレイヤーが、
行ってきた胡漢融合の歴史。
それは異民族側が漢人文明を取り込むための歴史でもある。

彼らの後を受けて、
胡漢融合の集大成を成し遂げたのが楊堅である。

実態は異民族の楊堅たちが、
漢人の衣を羽織った。

それが隋である。
これを唐が受けて胡漢融合は完成する。


結局のところ、
この約300年の主役は異民族だったのである。