歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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呉郡四姓は誰のことか=彼らの由緒、由来とその境遇=

呉郡四姓とは、

三国志の時代に出てくる、

顧雍、陸遜、張温、朱桓のことである。

 

司馬睿が南遷したときに、建業を中心とした

江南エリアで力を持っていた呉郡四姓という存在がいる。

彼らが江南土着勢力の代表である。

 

 

呉郡四姓とは誰か。

 

江南土着勢力として東晋以前から力を持っており、

王導に取り込まれた主な勢力は呉郡四姓である。

 


●呉郡四姓とは何を指すのか。

 


明確ではないので、はっきりさせたいと思う。

 

呉郡四姓は東晋成立前から、

呉郡において力を持っていた土着勢力のことを指す。

孫呉以前から呉郡にいた勢力である。

具体的には、

張氏、

朱氏、

陸氏、

顧氏、

の四氏である。

陸氏と顧氏は明確だ。

夷陵の戦いで劉備を大敗させた陸遜と

孫呉の二代丞相顧雍、それぞれの一族である。

この一族しかないので、これらは確定である。

問題は張氏、朱氏である。

孫呉に所属する、張氏と朱氏は、複数ある。

張氏は、

張昭、

張紘、

張温

など。

朱氏は、

朱桓、

朱治、

朱然、

など。

誰を指しているのかが明確ではない。

但し、陸氏と顧氏の共通点がある。

彼ら陸氏・顧氏は呉郡だけではなく、

呉郡の呉県が出身なのである。

そうなると、自ずから決まってくる。

呉郡呉県の、

張氏は、張温、

朱氏は、朱桓、

である。

「世説新語」に「張文、朱武、陸忠、顧厚。」と称えられている。

すなわち、

張は文に秀でている。

朱は武に秀でている。

陸は忠義に厚い。

顧はいたわりの心を持つ。

とそれぞれ言われ称えられた。

 


●呉郡呉県とは。


呉郡の呉県とは、

現代の蘇州市である。

蘇州であるから、春秋呉の姑蘇である。

越は、会稽から遷都して、姑蘇に都を置いた。

秦代においては会稽郡の郡治であった。

 

つまり江南エリアの古来からの中心地、

それが呉郡呉県である。

この中心地を牛耳っていたのが、

呉郡四姓の四族なのである。

彼らの由来を辿りたい。




●顧氏 越王勾践の末


越王句践の末裔である。
句践の建てた越は、戦国時代に滅びたが、

前漢高祖劉邦はその末裔(名を揺という)を探して、

越王とした。

会稽に居を置いた。彼が顧氏の祖である。

後漢の明帝の時には、顧综が御史大夫、尚書令まで昇った。

顧雍は孫呉の丞相である。丞相位にあること19年であった。


●陸氏 田斉の末裔

陸氏は田斉の末裔である。

斉の宣王の子田通が平原郡般県の陸郷に封じられた。

それを縁に、陸姓と名乗った。

そこから四代目、陸烈という人物が出るが、

彼は呉の県令に任じられた。

陸烈は呉の民に愛され、

そこで死去。遺体は故郷に帰らず、呉の地に埋葬された。

これをきっかけに本籍を呉郡呉県に本籍を移す。

 

●張氏 張良の末裔


呉郡張氏の出自は姫姓である。

黄帝の子孫で途中張姓を賜る。

西周宣王の卿士張仲、

前漢高祖劉邦の軍師張良はいずれも祖先である。

彼らの子孫が、呉県に住み、その末裔が呉郡張氏となる。


●朱氏 先祖は邾の君主

 

呉郡朱氏の本姓は曹である。

顓頊の孫の陸終の子、陸安が、

曹という姓を賜ったことに由来する。

彼らは、周の武王が殷を倒した後、

邾に封じられた。場所は、後の兗州、山東省である。

邾侯は、子爵であった。(子爵なので異民族である。)

 

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その後楚に邾は滅ぼされる。国を去り、朱氏と称した。

一族は四散した。その中で、朱買臣という者が、

前漢武帝に取り立てられ、会稽太守になった。

これが江南との最初の関りだが、その後、

後漢和帝のときに呉郡太守に朱梁という者がなり、

そのまま呉郡に住んだ。

それが呉郡朱氏である。

顧氏は、越王句践の子孫なので、

地元の英雄である。

それ以外の三氏は、華北の由緒ある血筋である。

江南がまだ注目に値しない頃に、華北から来てくれた一族で、

文化、文物をもたらしたことで衆望を集めたのだろう。

 

●呉郡四姓、孫権の時代から、地元に力を持つ。


こうした由緒があり、

地元呉に強い地盤を持つ呉郡四姓。

彼らは孫権の時も煙たがられた。

 

孫権は後漢末期、江南に拠って、勢力を築いた。

彼らの協力は前提であった。

 

協力者である一方、

呉主、後の皇帝孫権にとって、

彼らは自身の動きを制限する者でもあった。

 

実は、彼ら呉郡四姓は、全て孫権から弾圧されている。

 

顧氏  一族の顧譚・顧承が二宮の変にて、交州に流刑

朱氏  一族の朱拠が二宮の変で自死を命じられる。

陸氏  二宮の変に絡んで、陸遜は孫権に諫言したが、逆に詰問され、憤死。

張氏  張温は曁艶という者を推挙したが、後に酷吏となる。

               224年に彼を誅殺する際、推挙した張温に類は及び失脚。

上記三氏が影響を受けた、

二宮の変は、孫権が病などで異変があり、

判断力が鈍ったなどとされるので、

何とも言えないが、

孫権が正気なら、二宮の変と言う孫権の後継者問題に絡ませて

江南土着勢力を抑制に掛かったとみることもできる。