歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

東晋創業者元帝司馬睿②叔父司馬澹・司馬繇の兄弟喧嘩で割りを食う。

影の薄い東晋元帝司馬睿。

①では、司馬睿は時の名家に生まれながらも、

父の早逝と祖父母の叔父への偏愛により、本来なら、

一族を率いる立場になるはずが、そうならなかったことを記した。

 

八王の乱が勃発する中。

それぞれ父の次弟、三弟である

叔父司馬澹と司馬繇の兄弟喧嘩がエスカレート。

司馬睿もその影響を受ける。

 

 

 

●賈后派に付く司馬睿。


洛陽では賈后が楊氏を滅ぼして政権を獲る。

司馬繇はこれに積極的に協力した。

合わせて、司馬繇から見て祖父諸葛誕の仇である、

文鴦(ぶんおう)も殺害していた。

このような面もあり、

司馬繇は諸葛太妃の偏愛を受けているのだろう。

 

何のことかというと、これは諸葛誕の乱に始まる、

憎悪のストーリーである。

文鴦は257年に起きた諸葛誕の乱の終盤に、

諸葛誕に父文欽を殺されたため、司馬昭に投降。

これがきっかけとなり、

諸葛誕軍は瓦解。

劣勢となった諸葛誕は撃って出て討ち死する、という話である。

 

これがきっかけで、諸葛太妃、司馬繇は、

文鴦を仇と考えていたのだ。逆恨みもいいところであろう。

 

この時代は、

賈后やその母郭槐の烈女ぶりが話題になるが、

諸葛太妃も多分に漏れずなのだろう。

しかし、このような司馬繇は

当時の最高権力者で叔父の司馬亮に嫌われていた。

賈后が楊氏を撃滅して政権を獲ったが、

運営は宗師の司馬亮に預けた。

 

司馬亮は論功行賞を検討する際、

甥の司馬繇を嫌い、遼東へ流罪とした。

司馬繇は剛毅果断で、美髯の持ち主であった。

裏を返せば、自身の勇を誇り、傲慢な人物だった。

司馬亮にとって、鼻持ちならない人間だったのだろう。

 

司馬亮は司馬伷家を後見する立場であったにもかかわらず、

司馬繇をコントロールできず、排除したのだ。

相当に腹の立つことでもあったのだろう。

 

司馬繇の兄司馬澹(しばたん)の正妻は、

賈后の血族で、

司馬繇の流刑とは関係なく、

賈后政権に高位につく。

これにより、

この後10年と少しは、司馬伷家に平穏な時期が訪れる。

司馬澹を中心にまとまっていた。

賈后に連なる者としてのアドバンテージは大きい。

司馬澹は司馬伷家の族長として、

司馬睿は司馬澹の後見を受けていたはずだ。

 

しかしこの状況も洛陽での政変で、激変する。

300年に賈后が滅び、司馬倫が簒奪。

それを司馬冏らが打倒する。

 

司馬冏が政権を獲るが、

ここで諸葛太妃が

司馬澹弾劾の建議をする。

司馬澹は母である諸葛太妃に対して親不孝であると。

孝道に則っているかは、後漢末までの

人材採用での最重要事項であった。

弾劾の対象にもなっていた。

 

当時においても、

孝道を非常に重視する風潮は残っていた。

反対に司馬繇は親孝行だと言ったはずである。

これが認められ、

司馬澹を遼東に流罪。

 

代わりに、

遼東に流罪にされている司馬繇を中央に召還することになった。

司馬冏による他家の影響力を削ぐ政策の

の一環なのだろうか。

この諸葛太妃の要望を聞くメリットはそのぐらいにしか

想像がつかない。

いずれにせよ、

諸葛太妃の、司馬繇に対する相当な溺愛と、

烈女ぶりを想定させる。

 

 

 

●司馬越との縁

 

司馬睿を後見してきた司馬澹は遼東に流される。

一方で、遼東に流されていた司馬繇は洛陽に戻ってくる。

司馬伷家は事実上司馬繇が取り仕切ることになるのだろうが、

司馬睿は司馬澹に従ってきたので、司馬繇と協調するのも難しい。

 

ここで、司馬睿は司馬越との縁ができたのだろう。

司馬越は、司馬冏政権の司空である。

宗師で、西晋司馬氏宗族の長老であった。

司馬越の庇護を求めた。

 

司馬越は封地も隣り合っていた。

司馬睿の瑯琊国の南が、司馬越の東海国(首府は郯県)である。

 

司馬睿からすれば、誰かの後ろ盾がなければ、

叔父司馬繇から何をされるかわからない。

司馬冏は叔父司馬澹を排除したので、

司馬越を頼ったのだろう。

 

しかし、

司馬冏政権は一年足らずで、崩壊する。

司空の司馬越も失脚。

 

司馬穎が政権を獲る。

叔父司馬繇は司馬穎に付いた。

しかし、

司馬穎の勘気を蒙り、処刑される。

その理由は司馬繇が司馬穎に対して正論を述べたからである。

 

304年7月の蕩陰(とういん)の戦いにおいて、

司馬穎は西晋恵帝の親征を受けた。

恵帝の旗を見た司馬繇は、正論にも

司馬穎に皇帝の親征だから降伏すべしと主張。

司馬穎はそれを恨みに思い、戦後司馬繇を処刑する。

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いよいよ八王の乱が華北全域に広がる。

司馬穎と司馬越の両陣営の戦いが続く。

司馬睿は司馬越に従っていく。

司馬睿は分割相続で力は少ないながらも、

司馬炎の叔父の家を継ぐ存在で、格は高い。

司馬越にとっては大きな意味を持っていた。

306年一杯で、司馬越は八王の乱の最終的な勝者となった。

 

翌307年になると、

司馬越は乱れた各地を討伐すべく行動に移す。

司馬越含めた四兄弟は四方に出鎮。

信頼された司馬睿も出鎮する。

 

●司馬睿は司馬越の指示で、王導とともに江南に赴く

 

司馬睿は司馬越の指示通り、

江南に赴く。

ここまで誰かの指示の下動いていた司馬睿。

ここで司馬睿が行ったのは、

王導に現実の政治を任せることだった。

 

そもそもこれこそが、

徳治主義のあるべき姿である。

自分という個人が、

修身すれば、この人物を皆が慕い、

天下は安まる。

 

となれば、江南でも

何でも王導に諮ったはずだ。

何故なら王導は司馬越の参軍であり、

この司馬睿勢力の監軍なのだから。

任せるべき存在とも言える。

 

現実の政治は王導に任せられた。

 

司馬睿は、父の早世後、

叔父や祖母らの確執の中、うまくやってきた。

何かを主体的に切りひらいてきたというよりも、

状況に合わせてうまくやってきた人物だ。

このような人物が司馬睿である。

東晋初期の政治に司馬睿の意図はほぼないと言ってよい。

曹魏のアンチテーゼが西晋である。

曹魏の法治主義から逆に旋回したのが

西晋である。

 

西晋は、徳治主義で成り立っており、

皇帝以下宗族は自ら手を下すよりも、よくも悪くも

どっしりと構える傾向にある。

これは劉禅だったり、西晋恵帝だったり、

武帝司馬炎もそのような側面があるが、

漢から始まる古代漢人文明の、上に立つものについての、

最終形態であった。

 

●●劉禅については下記を参照。この時代の皇帝のあり方がわかる。 

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現代から見ると、大失敗だが、

当時は悪いという概念は全くない。

基本的には下に任せるというスタンスなので、

司馬睿は影が薄い。

司馬睿のこうしたスタイルは、

当然東晋皇帝の在り方にも影響を与える。

東晋皇帝は、

徳治主義に則り、権威はあれど、権力はなかった。

 

このようにして東晋は始まり、

皇帝の意志はほぼ見られずに終焉を迎える。

意志があったのは、いずれも司馬睿の子だが、

明帝が王敦の乱を鎮圧した時、

簡文帝司馬昱(しばいく)が桓温の九錫強要を拒否した時、

ぐらいである。