歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

東晋元帝司馬睿③ 司馬睿が307年に江南に来てから

307年に

司馬越の指示の下、

やってきた、司馬睿こと後の東晋元帝、王導。そして王敦である。

 

 

八王の乱の最中、

建業を中心とする江南は、

陳敏の乱を中心に、中央の統治下から離れてしまっていた。

 

そこに、落下傘の如く、やってきたのが、

上記の三人である。

 

●●●司馬越 八王の乱の勝者

 

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 ●司馬越の指示で江南にやってきた司馬睿

 

306年一杯で、司馬越は八王の乱を勝ち切った。

これからの西晋は司馬越が率いる。

 

乱れた各地を抑えにかかるため、

司馬越自身も含んだ、四兄弟が洛陽を出て、

四方の副都、司馬越が許昌、

司馬騰が鄴、

司馬略が襄陽、

司馬模が長安に散る。

 

江南は司馬越の直轄である。

 

わかりやすく管轄エリアが決まっている。

諸軍事の管轄エリアに紐付くからだ。

長安の司馬模は、

関中(渭水盆地)、蜀(漢中と四川省)、隴(甘粛省南部)である。

襄陽の司馬略は、

荊州である。

司馬騰は、河北より北である。

中原の黄河以北となる。

 

そして、司馬越は、許昌に出るが、

その管轄は残りの豫州とその先の揚州、江南方面である。

江南の建業には、
洛陽を出て、許昌を経て潁水沿いに東南東に向かう。

寿春を経て南下、合肥を越えて長江に至る。

そこから渡江し、建業に至るというわけだ。

 

このルートで、

江南に下った司馬睿、王敦、王導は、

司馬越の管轄下であった。

 

司馬越の指示の下、

彼ら三人は建業には入る。

丸腰だが、司馬越の権威の下押さえにかかる。

 

八王の乱(は後世の言い方ではあるが)

は司馬越が鎮圧。西晋皇帝の下、

天下に再度平和が訪れた。

揚州も以前のように落ちきなさい、と。

 

●八王の乱の影響で江南も反乱が起きていた。

 

当時の江南は、

陳敏という人物が乱を起こしていた。

江南の呉郡四姓の一つで、越王勾践の子孫、

孫呉の名宰相顧雍の孫、顧栄が陳敏に協力していた。

しかし、司馬越からの帰順要請に顧栄は応じ、

陳敏を殺害した

 

そうして、

顧栄は、司馬越の名代(司馬越の権限を江南で代行するということ)

としてやってきた、司馬睿を迎えた。

司馬睿を王敦、王導が補佐している。

 

この時の司馬睿、王敦、王導が武力を持っていなかったと

よく言われる。

 

この後の永嘉の乱から東晋成立、五胡十六国時代へと移る展開が、

我々には見えるので、言いたくなる。

 

しかし、これは当然のことである。

司馬越が、西晋の最高権力者として、皇帝の勅許の下、

遣わした使者、それが司馬睿らなのだ

 

江南、当然従うべし、である。

 

例えば、江戸時代に、

徳川将軍からこの地を治めろと言われ、

赴任するときに強力な軍隊を持っていく大名はいない。

現地の人間は従うのが前提で、

赴任する大名に全面的に協力する。

その前提が成り立っているのが

国家というものである。

 

もし、万が一、赴任する大名が軍隊を連れて行ったとするのなら、

それはすでに反乱が起きているか、それとも反乱が起きる可能性があるのか、

のどちらか、である。

 

何もないのに、軍隊を連れて行くとしたら、

それは、現地の人間は相当に警戒をする。

当然である。

 

この時の司馬睿、王敦、王導が、

建業には入るとき、少数の人間で入るのは当然であった。

 

越王勾践の子孫で、名宰相顧雍の孫、

顧栄は、陳敏を殺して、頭を下げているのである。

 

この当時、都督揚州諸軍事という権限を

司馬睿は得ているが、全ては現地調達である。

 

この権限があれば、揚州エリアにおける軍権は全て動かせる。

 

司馬睿が建業に赴任するための費用は自腹である。

引っ越し費用、渡航費などは、自分で出すのである。

 

建業には着いたら、

都督諸軍事としての権限で、

住居、使いっ走り、食べ物、必要な物資、金銭、

全てを徴発するのである。

 

本来なら、前任の都督諸軍事から、

そういった環境を引きつけばよかった。

だが石冰の乱、陳敏の乱で西晋の統治が及んでいなかった。

 

つまり司馬睿の前任はいなかった。

 

ゼロから都督として江南に環境を整備しなくてはならなかった。

 

 

●永嘉の乱の序章 司馬睿は司馬越の支援が受けられない。

 

 

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八王の乱は司馬越が勝ち切った。

だが、西晋の内紛はなくならなった。

 

時の西晋皇帝、懐帝が司馬越を排除しようとする。

そもそも懐帝は、八王の乱を司馬越と戦った、

司馬顒が擁立した皇帝だ。

司馬越と合うはずがない。

 

こうしたリスクがあるにも関わらず、

司馬越は上記のように皇帝のいる洛陽を開けてしまった。

 

これが懐帝の野心を引き起こす。

 

懐帝の、

司馬越排斥を察知した司馬越は本人は洛陽に戻り、

引き締めに入る。

 

懐帝と、司馬越は表面化はすぐにはしないものの、

対立状態に入る。

 

西晋はもう安定しなかった。

このような状況だったので、

司馬睿らがいる江南も安定しない。

 

●江南土着勢力の周玘に助けられる司馬睿たち、しかし冷遇

 

310年銭璯(センカイ)の乱が長江北岸の広陵で起きる。

長江南岸へ渡り建業を攻撃してくる。

そこを、新興の江南土着勢力の

義興郡の周玘(しゅうき)が鎮圧。

 

周玘のことを新興、新興というが、

孫呉以来の大族で十分名族である。

しかし、それよりも古い勢力が呉郡四姓だ。

呉郡四姓の、例えば、

顧氏は春秋時代から江南に根を張っている。

なので、新興という言い方になる。

 

なお、少し説明すると、

周玘は、孫呉の周魴の孫である。 

周玘の祖父周魴は三国志の世界に登場する。

孫権の意を受けて、当時の都督揚州諸軍事曹休に、

偽りの投降を申し出る。

これを信じた曹休は、孫呉征伐を奏上。

228年の石亭の戦いとなる。

揚州方面から曹休、荊州方面から司馬懿が、

呉を攻撃する。揚州方面で待ち伏せをしていた陸遜により、

曹休軍は大敗、撤退を余儀なくされる。

この戦勝が翌229年の孫権の皇帝即位へと繋がる。

孫権の詐謀好きの印象が確定した戦いである。

 

曹丕の恩寵を受けた司馬懿、曹丕の早すぎる死により

当時司馬懿は荊州に都督として駐屯(出鎮)していた。

 

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周玘は、

軍事力をほぼ持たない司馬睿を助けた。

しかし、司馬睿勢力が徐々に江南を取りまとめていくと、

周玘のポジションが相対的に低下する。

 

初期の司馬睿は周玘を頼っていたが、

他の勢力も司馬睿の下に集うと、周玘の価値が下がる。

本来はそこで、初期に加勢してくれたとして、

一段階評価を上げる。しかしそれをしなかった。

 

王敦、王導ら司馬睿の幕僚たちは、

呉郡四姓を重視していた。それで、新興の周玘は割を食った。

冷遇されたまま、周玘は病死する。


周玘の後を継いだ子の周勰(しゅうきょう)が314年に乱を起こす。

しかし、早々に鎮圧された。

周勰が乱の盟主とした叔父周札が司馬睿勢力に篭絡されていたためである。

周勰の挙兵に応じなかったである。周勰はあえなく鎮圧された。

周札に見殺しにされた。

 

司馬睿を盟主として江南が一旦はまとまってくる。