歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

王敦と王導が江南、荊州を掌握し、東晋は成立した。

318年3月に東晋は成立する。

 

 

それは、必然ではなかった。

江南がまとまっていたから

司馬睿は皇帝になれたのである。

司馬睿は、ライバル司馬保を

押しのけての即位であった。

 

東晋が成立する前なので、正しくは西晋だが、

西晋の各勢力で、最もまとまっていて、

大きな勢力を持っていたのは司馬睿だったのである。

 

では、それを実行したのは司馬睿だったのか。

 

これは結論、王敦と王導であると私は主張する。

王導だけではなく、王敦も、であることがポイントだ。

そして王敦がメインである。

 

 

いや、それは王導である、と言われている。

しかし、確実に王敦も携わっている。

そして、それは意図的に隠されたと私は考えている。

私は王敦が主で、王導は従だと考えている。

 

 

ここでは、まずは司馬睿ではなく、

王導と王敦が、建康を中心とした江南と、

長江中流域の、江州と荊州を

それぞれ勢力下に収めたことを見ていきたい。

 

●江南は王導。

 

 

司馬睿は江南に王導と共にやってきた。

 

しかし、

武力も地盤もない。

洛陽では懐帝と司馬越の

権力争いが起きる。

構図としては、

八王の乱の延長戦。

司馬睿と王導は司馬越の指示で

江南に来ている。だが、

司馬越の支援は司馬越自身が中央に付きっ切りで、

江南まで手が回らない。

司馬睿と王導は独力で

江南をまとめる他なかった。

彼らの手元にあるのは、

権威だけだった。

 

 

●王導の巧みな政略。

 

江南豪族を籠絡する。

王導は結論として、

呉郡四姓と言われる、江南名族を取り込み、

新興豪族を冷遇した。

王導はこれにより、

江南をまとめきった。

官爵、封地など、

西晋の名の下に、公に認めた。

西晋の権威に呉郡四姓を取り込んだ。

王導はその実行部隊の長であり、

当然彼らの上に立つ。

 

全くの丸腰だった司馬睿と王導は

これで何とか自力で江南に立てるようになった。

307年に江南に来てから丸腰だった、

司馬睿、王敦、王導。

呉郡四姓を中心に江南土着勢力との連携を深める。

陳敏の乱以降、江南は中央の統治からは離脱していた。

 

310年銭璯の乱が長江北岸の広陵で起きるが、

江南に来て三年経っても、司馬睿らは軍事力を持てていなかった。

銭璯は広陵から長江南岸へ渡り建業を攻撃。

義興郡の周玘(しゅうき)が鎮圧。

軍事力をほぼ持たない司馬睿を助けた。

 

しかし、司馬睿勢力が徐々に江南を取りまとめていくと、

周玘のポジションが相対的に低下する。

他の勢力が司馬睿に参加すれば、

周玘(しゅうき)の価値が下がる。

王敦、王導はそうした周玘(しゅうき)の

フォローはしなかった。

苦しい時を助けてくれた周玘を見捨てたのである。

 

それは、

古来からの江南名族、

呉郡四姓を重視していたからだ。

新興の周玘は割を食った。

このため、

周玘の子周勰(しゅうきょう)が314年乱を起こす。

しかしすぐに鎮圧された。

周勰が乱の盟主とした叔父周札が王導に篭絡されていたためである。

周札が挙兵に応じなかったのだ。

はしごを外されたのである。

周勰はあえなく鎮圧された。

王導はこのようなやり方で、

人脈と尊崇を受けた。

 

司馬睿は前面に出て来ない。

ただの権威に過ぎない。

西晋の宗族として江南にいる。

西晋の権威を象徴するが、

彼自身に何の実権もないのだ。

 

結局実動しないと、何も手に入れられないのだ。

 

これは

荊州調略も同じだった。

 

●江州・荊州は王導との関係の深い王敦が調略。

 

王敦は

王導と同じ、瑯琊王氏である。

 

石崇の金谷園に、

王導と王敦は一緒に

行ったというエピソードがある。

 

ここは当時の一流の名士しか行けないサロンである。

石崇はここで賈謐二十四友という当時の教養人を称した

人脈を作っている。

 

●●●賈謐二十四友

 

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彼ら王敦と王導は高い教養があったわけである。

 

それと共に、

王導と王敦の付き合いは長く、

関係も深いということをうかがわせる。

王敦は王導と共に江南に来ていた。

江南は王導、

荊州方面への調略は王敦が進めた。

 

調略と言っても、敵対勢力であるわけではない。

司馬越の勢力の副将格司馬睿が建業に来たので、

司馬睿の下にみんなまとまってほしいというわけだ。

慰撫をするということになる。

 

とはいえ、そううまくもいかない。

 

八王の乱が起き、

最後は司馬越派と、反司馬越派が戦った。

司馬越派が最終的に勝利を収めたが、もちろん中華各地は、

八王の乱の余波を受け、

乱れていた。

 

しかし、

司馬越が最高権力者になったのだ、

その名代は司馬睿だ、

だからまとまれ、まとまってくれ、なのである。