歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

瑯琊王氏の事実上の頭領は王敦である。

東晋の事実上の建国者は、

司馬睿でも、王導でもない。

王敦である。

この理由を説明したい。

 

 

そして、当然瑯琊王氏の頭領は王敦であった。

王敦は、王導より格上なのである。

 

その理由は5つある。

それぞれ説明したい。

 

これらは王敦以後の瑯琊王氏が生きていくために、

伏せられた事実である。

 

その代わり、王導の忠臣・名臣伝説が

意図的に作られる。

 

実は賊の王敦が瑯琊王氏の頭領だったではまずいのだ。

賊の王敦が東晋の事実上の建国者だったではまずいのである。

 

 

①王敦は実は司馬炎の婿

 

王敦は、西晋武帝司馬炎の婿である。

非常に大きなアドバンテージである。

晋の開祖武帝司馬炎の婿であることは、

何よりの大きい権威である。

これにより、王敦は西晋恵帝の側近でもあった。

西晋恵帝からすれば、王敦は義理の弟なのである。

 

②王敦は揚州刺史で直臣、王導は司馬睿の属官で陪臣

 

王敦は、司馬越から揚州刺史に任じられて、
江南に下っている。

 

時の最高権力者司馬越により、

揚州刺史を任されている。

これは江南に関しては、司馬睿に次ぐナンバー2のポジションに

王敦を指名したことに他ならない。

 

都督揚州諸軍事は、司馬睿で軍権を持つ者が

そのエリアのトップだが、

ナンバー2は刺史である。

江南では、揚州刺史である。

 

例えば、并州の劉琨は、

都督并州諸軍事兼并州刺史という任官のされ方も、

西晋では多かった。

両方を兼任すると、

そのエリアの政治、軍権を全権委任することに他ならない。

 

ということで逆を返せば、

政治のトップが刺史、軍事のトップが都督諸軍事である。

二つのポジションは対の関係なのだ。

 

さらに一言付け加えると、

王敦が揚州刺史であったことが

あまり知られていないことにこそ、裏がある。

 

隠したい理由がここにあるわけだ。

 

王導は、司馬睿の属官である。

 

直臣の王敦と比べて、属官の王導は格が全く違う。

 

揚州刺史は当然皇帝から任命されるが、

属官は仕える人物から官として認められる人数の範囲で、

将軍などが任じる。

直臣と陪臣の違い、この格の違いは非常に大きい。

 

この時点で、

王導は王敦に並ぶどころか、実は雲泥の差であった。

 

ここで差がついたわけでもない。

江南に行く前は、王敦は恵帝の側近で皇帝の直臣、

王導は司馬越の参軍で陪臣。

 

司馬越から見たら、王敦は同僚の一人で、

さらに皇帝家の一員であり、配慮すべき存在なのである。

 

 

③王敦は王導より年上:

 

王敦と王導は共に瑯琊王氏であるが、

王敦の方が王導よりも10歳年上である。

当時の儒教的観念からこの年の差は大きい。

一族の兄として王敦は

王導から尊重される側となる。

 

瑯琊王氏の嫡流という意味では、

王導がその嫡流に当たる。

 

しかし、上記一点目の皇帝の婿というのは非常に大きい。

その嫡流というバランスを崩すものである。

 

少なくとも、別家であるという認識を持つのは当然である。

 

④使える勢力は使うだけ使って捨てるのは王敦の策

 

307年に司馬睿が江南に来てから、

各地の勢力をまとめていくのだが、

そのやり方は使える勢力を使うだけ使って、

最後はその権限から外すというものだった。

 

これは王導がやったとされる。

 

しかし、王敦が荊州攻略に向かうと、

それを一人で行っている。

 

王導は建康にいて、王敦に従って行っていない。

ということは、

王敦はこの調略を一人でできるのだ。

元々、世間的な格が王敦の方が上で、

一族としての上位の

王敦である。

これは、王敦の発案と言わざるを得ない。

 

⑤王導が排斥されて王敦が怒る理由

 

そして最後に王敦の乱のきっかけは、

司馬睿が王導を排除したことに

王敦が強く反発したことである。

 

これで王敦の乱が起きる。

 

元帝司馬睿は何をしたかったか。

法家思想に則り、

自身の側近を中心とした皇帝専制政治を

行いたかったのだ。

 

王導がいてはそれができないということだ。

これで、

王導が司馬睿の意向を踏まえて輔弼をしていたというのが

嘘だとわかる。

皇帝のために輔弼をしていたのなら外されることはない。

王導が外されて王敦が怒る。

 

つまり、王敦が王導を元帝司馬睿のそばに置いて、

朝廷を牛耳らせていたのだ。

それを元帝司馬睿に妨げられたので、王敦は反発。

そしてそれは乱を起こすほど、

王敦にとって嫌なもの、困ることであった。

 

ということは、王導の排除は、

王敦に降りかかるということである。

 

この時点で、王敦が主、王導が従ということが確実にわかる。

 

●こうして王敦は挙兵することに決めた。

 

王敦がこの時点で最も困り、嫌なのは、

荊州の軍権を奪われることである。

実権がなくなる。

 

王敦からすれば、

自分で戦って、掌握した荊州を

奪われることになる。

嫌がるのは当然である。

そうならないように、王敦は王導を建康に置いておいた。

 

しかし元帝司馬睿からすれば、

この世にあるものは全て中華皇帝のもの。

特に司馬睿が実践しようとした法家思想に基づいた政治において、

このようにして権限を剥奪されるのは、

多々ある。

法家政治を行い皇帝専制を確立していた曹魏は

酷な政治と言われ、批判された。

 

魅力的な荊州。

これを奪われかけて、王敦は考えた。

 

今やるしかない。

 

その結果が、王敦の乱である。

元帝司馬睿のいる建康を攻撃する。