歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

桓温の時代 345年〜373年

 

桓温を引き立てたのは、

庾亮である。

 

輿論から名声を得た桓温を、

当時蘇峻の乱を引き起こしたことで、

風当たりの厳しかった庾亮が政治的に利用したのである。

 

 

●桓温の出世 庾亮の思惑

 

 

桓温は父の仇討ちで名を上げた。

 

世間ばかりか、

亡き明帝の外戚庾亮すら、

桓温を賞賛している。

 

私はこれ自体が既に庾亮のポピュリズムと見る。

 

 

庾亮は、蘇峻の乱で名を堕としたから

その巻き返しのために、

桓温を使った。

 

庾亮は世間に媚びたのである。

 

東晋の世情は、とにかく鬱屈としたものだった。

そこに起きた

この桓温の清々しい行為に皆称賛を送った。

その世情に合わせて、庾亮などが、

民心掌握の為に桓温を評価したと私は考える。

 

庾亮は法家主義を信奉し、

堅い考え方の持ち主である。

硬骨漢で柔軟性に乏しい。型にはまった形を好む。

 

庾亮の先祖には、

西晋初期の権力者賈充に対して皇帝殺しと、

面と向かって罵ることができる庾純がいる。

庾氏というのは、

そういう風土の一族なのだと私は考える。

そもそも、こういう名族というのは、

教育自体も一族が握っていて、

考え方自体も伝播するものである。

 

庾亮の考えの行きつくところは、

明帝の公主(娘)を桓温に降嫁させることであった。

明帝の皇后が庾氏である。

つまり庾亮の姪である。

姪を桓温に娶らせた。

 

●庾亮が決めた桓温への公主降嫁。

 

桓温は、312年生まれの、373年に死没する。

20歳には妻を娶るので、

蘇峻の乱が終わった329年以降にこの話が決まっているはずだ。

蘇峻の乱で、桓温の父が328年に死に、

その三年後の331年に仇討ちをしている。

 

庾亮は蘇峻の乱で名を下げたが、

それでも外戚としての最高権力者であった。

皇帝成帝の母方の叔父である。

皇帝は331年時点で10歳、

母の庾太后は蘇峻の乱の中、328年に死んでいる。

10歳の皇帝がこのようなことを

一人で決めることはできない。

つまり、この縁談は庾亮が決めたのである。

 

桓温を全く知らないのであればそうもいかなかっただろうが、

桓温の父桓彝は散騎常侍として共に明帝に仕えた仲。

家柄も悪くはないので、自派に取り込むために

庾亮は決めたのである。

 

●絶望的な状況だった東晋と庾亮

 

庾亮は外戚として政柄を握ったが、

蘇峻への対応を誤り、

蘇峻の乱という大乱を起こしてしまった。

陶侃には頭を下げ、鎮圧に協力してもらい、

蘇峻が広い意味では属している、のちに北府軍と呼ばれる、

北来の郗鑒(チカン)にも支援してもらった。

 

庾亮ら庾氏は、外戚ではあったものの、

蘇峻の乱という大内乱を引き起こしてしまい、

表立って動きにくい状況であった。

 

華北の回復も非常に絶望的な状況だった。

石勒が328年に洛陽決戦で劉曜を滅ぼし、

華北を統一していた。

 

東晋の付け入る隙がなくなっていた。

 

●石勒

 

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この巻き返しを図る為に、

庾亮は桓温を取り込もうとしたのだと私は考える。

 

桓温はこうして皇帝の婿、駙馬となる。

 

●蘇峻の乱以後の沈静化した時代から、桓温の時代へ。

 

蘇峻の乱で、ようやく東晋は落ち着いた。

 

しかし華北を見ると、既に石勒が華北統一を果たしており、

手の出しようがなかった。

 

庾亮は北伐を企画するも、

石勒を継いだ石虎が察知、

荊州深くまで攻め込まれ、北伐計画は中止に追い込まれる。

 

庾亮は340年に死去。

ここまでに、

王導、郗鑒、陶侃など、各勢力の大物が亡くなっていた。

 

庾亮の死後は、弟の庾冰、庾翼が、

権力を握っていたが、

両名とも344年、345年に死去。

 

この後を受けて、桓温は

西府軍を握ることになる。

 

●桓温の功績を時系列に語る。

 

・桓温、荊州は西府軍の掌握。

 

345年西府軍を統括する。

具体的には安西将軍、荊州刺史として武昌に出鎮する。

 

・桓温、蜀の成漢を滅ぼす。

 

347年蜀の成漢征伐の成功。

ちょうど成漢が乱れていたタイミングであったが、

このチャンスを桓温は活かした。

 

これで、三国鼎立から、南北朝状態となる。

蜀を華北の石虎に押さえられると、

西晋の孫呉討伐前夜の構図になってしまう。

蜀の木材で船を作って、長江を降ってせめこめば、

長江の天険は役に立たなくなってしまう。

安全保障上著しい功績であった。

 

・後趙石虎の死、北伐が議論され始める。

 

349年石虎の死。

桓温は北伐の敢行を企画するも、

桓温の権力伸長を

会稽王司馬昱が危惧。

 

●王敦の再来、桓温。

 

 

既にこの時点で、宗族のトップ司馬昱が

桓温を警戒していることに注目したい。

 

司馬昱は、元帝の末子。344年に康帝が崩御するときに、

庾冰・庾翼は司馬昱を後継に支持していたが、

実現しなかった。この辺りから、

司馬昱は歴史上に登場し始める。

 

 

元々、

父の仇討ちで高い名声を持っている桓温。

皇帝の婿、駙馬としても、高い名誉、地位を保持している。

これに加えて、

蜀の制圧である。

 

桓温は王敦の再来と言って良い。

王敦が東晋の建国者なら、

桓温は東晋の救世主である。

 

桓温は、この時点で同領域の三国時代の孫呉

の誰よりも高い業績を成し遂げていた。

更に、

史上初めての南北朝の成立である。

長江を挟んでの二国間対立は、

中華の歴史上初めてのことだった。

 

 

会稽王司馬昱は、桓温にとって、義理の叔父に当たる。

妻の父明帝の弟に当たる。

元帝司馬睿の末子が司馬昱である。

しかし桓温より年下であった。

桓温は312年生まれ、司馬昱は320年の生まれである。

 

桓温に北伐をさせるわけには行かない。

成功してしまえば、東晋皇帝を凌駕する。

 

これでは王敦の乱前夜の王敦と同じ構図になる。

 

 

司馬昱は、桓温に北伐をさせず、

まずは外戚の褚裒(チョホウ。康帝皇后の父)

その後、

北府軍の殷浩(桓温の旧友)が行う。

しかしながら、

両者とも失敗。

 

結局桓温が北伐を行うことになった。

 

●桓温の三度の北伐

 

・354年2月桓温の第一次北伐。長安包囲。

 

江陵から進軍、前秦軍を撃破。

桓温軍は関中まで到達する。

前秦は堅壁清野の策を採用。

野にいる民を長安城に収容して立て籠もる作戦である。

桓温軍は略奪ができないので、

兵糧を現地調達することができない。

 

前秦は桓温の兵糧切れ撤退を狙う。

 

桓温は、

長安の守りが鉄壁であること、

桓温軍は遠征であることから、

長い滞陣は不利と悟り、354年6月に撤退。

 

 

・356年桓温の第二次北伐。洛陽攻略。

 

許昌にいて、前燕に属していた、

羌族の姚襄(後秦を建国した姚萇の兄)を撃破。

姚襄ら羌族は後趙の徙民政策で

河北の清河に8万戸居住していた。

 

後趙の崩壊後、安住の地を目指してさまよっていた。

桓温は洛陽の奪還を実現。

帰国後、大司馬、都督中外諸軍事となる。

大司馬は、

霍光、王莽の最高位の官職。

都督中外諸軍事は魏晋の全軍権掌握の権限を持つ。

 

・364年桓温の康戌土断。第三次土断。

 

364年桓温の康戌土断。第三次土断。

土断は東晋で5回。この桓温の土断が最も大規模であった。

 
僑州郡県にて管理していた北来の流民を、

その流寓地の戸籍につけて、

税役などを課すという政策。

 

僑州というのは、北からの流民がその出身地の名前を

冠して作った州。

名前は例えば豫州とかであるが、場所は江南にある。

そうした流民たちは税を免除されていたが、

戸籍を実際に住んでいる州に付け替えて、

租税を課すというものである。

 

これを桓温は断行した。

 

この桓温のものが最も大規模。3回目。

その前は327年、341年。

この流民の支持が、

同じく北来の政権幹部は必要だったので、不徹底だった。

残りの2回は劉裕が実施。

412年、413年の義熙土断。

 

 

365年前燕の慕容恪により、洛陽を奪われる。

 

369年北府軍も桓温が掌握。

 

・369年桓温の第三次北伐。華北にて慕容垂に敗れる。

 

同年桓温は第三次北伐を起こす。

しかし、枋頭(河南省浚県)の戦いで前燕の慕容垂に大敗。

桓温の戦い方は電撃戦が多く、素早く敵地の懐深くに

入り込むのが特徴だが、

慕容垂に裏を突かれて敗退した。

 

372年皇帝になっていた

簡文帝司馬昱に九錫の付与を迫るも、

謝安らの反対により失敗に終わる。

九錫は禅譲の条件の一つである。

●九錫とは?

 

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373年桓温死去。