歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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桓温死に臨み、末弟桓沖に後を託す理由。

桓温はその死にあたり、

実の子ではなく、

年齢の近い弟でもなく、

末弟の桓沖に後を継がせた。

 

 

皇位を窺うとされた桓温は、

自分の死後、一族が狙われることをわかっていた。

 

政治経験の少ない子供達では、

それを交わし切ることはできないだろう。

 

そこで長年、桓温の副将として

支えてきた、末弟の桓沖に後を託すことに決めた。

 

 

●一歳の時から桓温が面倒を見てきた弟・桓沖

 

桓沖は、

桓温の北伐に常に付き従いかつ軍功を挙げてきた

優秀な将軍である。

 

桓沖は父桓彝最晩年の子である。

桓彝が蘇峻の乱で死ぬ329年の一年前に生まれている。

 

この時、桓沖の長兄桓温は17歳である。

この後の経過を考えると、

桓温は桓沖の親代わりをしていた。

最晩年、桓温の桓沖に対する信頼は変わることなく、

後事を託した。

 

桓温の死の時点では桓沖が揚州刺史として

京口に駐屯していた。

合わせて、桓温の南郡公の爵位は桓温の末子、

桓玄が継ぐことになった。

時に桓玄4歳。

 

345年からの東晋の実力者、桓温の譙国桓氏の行く末は、

桓沖が支えることとなった。

 

 

●なぜ桓沖が譙国桓氏の後継者か。


東晋において

突出した力を持った桓温。

 

北伐を遂行するために、

皇帝の廃替、他勢力の弾圧を行ってきた。

 

桓温は高い支持を誇るも、

当然強い反発を持つ勢力もいる。


その桓温がいなくなれば、

桓氏が狙われるのは日を見るより明らかである。

 

これをどう対処するか、

桓沖の手に全ては委ねられたということだ。

 

 

●譙国桓氏のソフトランディングを桓温に任された桓沖

 

桓沖は328年生まれで、桓温が死ぬ373年に45歳である。

 

最も脂の乗っている年齢である。

桓沖は桓温の文字通りの右腕として能力を評価されていたのだろう。

 

桓温の反対勢力は小さくはない。

良い悪いはともかく、皇帝の廃替を行った人物の一族で、

生き残った事例は史上、存在しないのである。

実力者桓温が世を去れば確実に狙われる。

 

桓温は最も信頼のできる末弟桓沖に後を託した。

 

桓温は、桓沖以外には誰にもその意図をいわなかったのだろう。

桓温が桓沖を後継にした意図は譙国桓氏の生き残りで、

これを悟られたら意味がないのだからやむを得ない。

 

 

桓温の爵位、南郡公は、末子の桓玄が継いでいるが、

これはカモフラージュだ。

桓玄を殊の外桓玄を可愛がったためと言われているが、

これも桓温の策略である。

意図的に桓沖が流した話かもしれない。

 

桓温の後継者は4歳の子供か。

それに母は娼婦だという。

それを支えるのは桓沖か。桓沖も大変だな、というわけだ。

敵対する勢力を油断させるには格好のプロフィールだ。

 

大体、4歳の子供など可愛いに決まっている。

しかし、

それを後継者にするほど、桓温は耄碌していない。

4歳の子供に才能があるかどうかなどわからない。

桓温の持ち味は決断力である。それで北伐を成功させてきた。

 

とにかく、桓温は自身の死後の一族のソフトランディングを

必死で考えた。確実に行うことができると思われる、

最も信頼のできる桓沖に後を託し、桓温は死んだ。

 

この桓温の判断は一族にも全く理解されなかった。

 

事実上の後継者桓沖に反発して、

桓温の弟で桓沖の兄、桓秘、

桓温の子で桓玄の兄、桓煕、桓済が

桓沖を殺そうとする。

 

しかし失敗に終わり、彼らは長沙に流され幽閉される。

桓温も桓沖も、このようなことが起きることを

ある程度は読んでいたのだろう。

変に一族の同士討ちにならず速やかに鎮圧しているからだ。

 

桓沖の兄は桓沖が継ぐ理由を知らず、

桓温の子供二人までも、桓沖に後を継がせる意図が知らされてなかったことを

示唆する話である。

 

桓温の子であれば、後継を主張する理由もあるし、

末弟よりも兄の自分が継ぐべきだという主張も理解できる。

 

桓温が不世出の存在でなければ、桓沖が

後継者になることはあり得なかった。

 

 

 

●桓沖は桓温死後の最高権力者謝安との妥協を実現する。

 

 

373年に桓温が死ぬと、

謝安が権力を持ち始める。

 

桓沖はそうした中、

桓温の葬儀等で2年逼塞していた。

喪に服すという口実で大人しくしていたのだ。

敵対しないという姿勢を見せたのである。

 

そうした桓沖の動きに安心したのか、

375年に謝安は桓沖の持つ揚州の軍権を欲しがる。

 

揚州は帝都建康のある地域である。

 

桓温が朝政を完全掌握した際に、桓沖は

揚州の刺史と都督諸軍事に任じられていた。

 

これにより桓温は建康内外の軍権を押さえ、

朝政を掌握することになる。

 

揚州刺史は、

王敦が江南に来た時の官職でもあり、

高い名誉と権限を持つ。

丞相や大将軍、大司馬などを抜かせば、

事実上の最高位である。

 

帝都建康の東にある京口に軍隊と共に、

桓沖は駐屯していた。

 

朝政を掌握したい謝安としては、

桓沖が京口に軍権を持って駐屯しているのは

目障りである。

これを桓沖から取り上げたかった。

 

これに対して、桓沖は謝安とうまく妥協し、

荊州に去った。

桓沖は自ら揚州の軍権を謝安に譲り、

外地へ去ることを申し出たのである。

 

 

本来は軍権が取り上げられ、無力化してしまうので、

桓沖の立場としては嫌がる部分だ。

 

しかし、ここは手はず通り、謝安に潔く譲り、荊州に去る。

 

ここの部分が全くピックアップされていないが、

桓沖が謝安とうまく妥協しなければ、

確実に争いになったはずだ。

 

謝安は、

皇帝の廃替を行った、亡き桓温一族に対して、

弾圧する口実などいくらでも作ることができた。

 

さらに、

桓温は最晩年、反北伐派に対して、

弾圧をしている。

謝安は彼らの協力を取り付けることなど造作もないことである。

 

血が流れる可能性は非常に高いが、

桓温亡きあとの譙国桓氏は動揺しているので、

打倒することはそれほど難しくないであろう。

 

謝安に狙われたら、桓沖ら亡き桓温一族は終わる。

 

そこを桓沖はうまく切り抜けた。

 

揚州刺史から退き、

最終的には

377年に荊州へと帰った。

桓沖が見事に謝安と妥協した結果、

荊州の軍権は保持することができたのである。

 

桓沖が謝安の信頼を勝ち得た結果である。

 

これだけ見ても、

桓沖が非凡な才能を持っていることがわかる。

 

さらに桓温が、

兄弟の情を超えたセンスで、

桓沖の人物を見抜き、信頼していた、

その人物眼の正しさがこれでわかる。

 

謝安が東晋の全権掌握をする中、

桓沖は謝安の命令通りに、

軍事を度々遂行した。

桓温の副将として活躍した桓沖の軍功は、

当時の東晋には貴重である。

 

383年淝水の戦いの前哨戦として、

桓沖は襄陽攻めをしている。

合わせて、蜀も攻めており、

こちらは蜀の奥地で成都至近の涪城まで

攻め込んでいる。

 

しかし、襄陽に苻堅の指示で慕容垂が援軍に来たこと、

また軍中に疫病が蔓延したことから撤兵している。

桓温の第三次北伐を失敗させた因縁のある

慕容垂と戦うことはならなかった。

 

だが、

桓沖が名将の一人であり兄を敗退させた慕容垂の前に、

見事に退却していることは、

桓沖が桓温や慕容垂に勝るとも劣らない将軍であることを感じさせる。

 

この後383年8月に

淝水の戦い本戦が起きる。

 

この時、以下のようなエピソードがある。

前秦苻堅が数十万の大軍を率いて、

建康の北の寿春を攻めることを知り、

桓沖が精兵三千人を建康に送る。

桓沖は荊州の守りから離れることはできないので、

兵を送った。

 

しかし、謝安は

桓沖の厚意を断った。

 

後世の書物はこれに関してコメントを付け加える。

桓沖の三千人ごときの援兵では、

苻堅を防ぐに足らないので返したのだという

桓沖を馬鹿にするようなコメント。

 

しかしながら、戦争は人数でするものではなく、

むしろ、中核の死を厭わない精兵で事実戦いは行われるものだ。

そのような死兵は数多くいるわけではない。

このような精兵はまさに虎の子である。

 

それを桓沖が出している時点で、

桓沖の意を慮れない時点で謝安はたかが知れている。

桓沖はこの事態でも、謝安への気遣いを忘れていなかったことの方が、

驚異である。

 

桓沖はこの時点で謝安は苻堅に負けると想定する。

本来そうなるはずだった。

 

しかし、苻堅の理想主義で固めた軍隊が、

一瞬で瓦解するとまでは、桓沖には想像できなかったのだろう。

 

桓沖は謝安に嫌われることなく、

淝水の戦いの翌年384年に死去する。

 

荊州に返されたとはいえ、

桓沖が謝安を気遣って送った、

精兵三千人の援兵も効果があったのだろう。

 

桓温、桓沖の譙国桓氏は、

謝安に弾圧されることもなく、

桓温の末子桓玄に無事引き継がれることになった。